菊地康介のコーヒーをめぐる旅 Vol.3
パナマの寒村に飛ばされて
話し手:菊地康介 / 聞き手:永井一樹(附属図書館職員)
(永)大学・大学院を通じて、教育について研究した菊地君ですが、修了後は、突然青年海外協力隊としてパナマに。修了後、すぐですか?
(菊)はい、すぐに。卒業は3月ですけど、1月にはJICAに入ってましたね。
(永)行き先のパナマも自分で希望したんですか?
(菊)いや希望通りにいくのは全体の五割ぐらいらしいです。僕は特に希望はなかったんですよ。中南米でもアフリカでもどこでもよかった。
(永)じゃあ、コーヒーとは関係なかったんですね?
(菊)はい、全然。偶然です。
(永)パナマはどれくらい居たんですか?
(菊)2年間です。2017年から2019年にかけて。
(永)生活はどうでした?
(菊)めちゃくちゃ楽しかったですよ。僕は村に飛ばされたんですけど、全員パナマ人で外国人はひとりもいなかったですね。そこで、小学校の先生をやりました。ど田舎で、道は舗装されてないし、馬とか走ってるところ。お店が一軒もなかったんですよ。だから食料品を買うために、バスに乗って隣町まで30分ぐらいかけて行く。水道水は飲めないから、大きなタンクを肩に掛けて運ぶみたいな。そういう暮らしをしてましたね。
(永)言葉の壁があるなかで、よくそんなサバイバルな生活ができましたね。
(菊)最初はほんとにきつかったですよ。家もぼろぼろだったんですけど、それを掃除するための道具の名前もわからないし。バスの乗り場も乗り方もわからない。バス停とか時刻表があるわけじゃなくて、走ってるバスに飛び乗るっていうルールなんですよ(笑)。このバスはどこに向かうのかわからないまま乗る。最初はほんと大変でしたね。
(永)今菊地君がやってるコーヒー豆の商売って、中南米の生産者と知り合いになったことがきっかけだって、言ってましたね。
(菊)はい。コーヒーを本格的に考えるようになったひとつのきっかけは、パナマに住んでた頃のホストファミリーが農園を持ってたんですよ。
まだ始めたばかりで、小さな農園だったんですが、いつかこれを日本で売りたいと言われて。僕自身も、現地でコーヒーの栽培を手伝いました。山に行ってコーヒーチェリーを積んで、それが1杯のコーヒーになるまでの工程を、全部自分の手でやってみたりした。
(永)コーヒーチェリー?
(菊)コーヒー豆って、もともとはコーヒーの木になる赤い実なんです。さくらんぼに似ているから、そう呼ばれています。
(永)もともと、赤いんですね。
(菊)緑からだんだん熟して赤くなったときに、摘む。そういう生産のプロセスとか、焙煎のプロセスとかを全部見て、ああコーヒーって面白いな、いつかホストファミリーのコーヒー豆を日本で販売できたら、面白いなと思いました。
(永)いいですねえ。何だか伊藤忠商事のCMみたい(笑)。
(菊)日本人にもコーヒー通はたくさんいるけど、自分でコーヒー豆を積んで、1杯のコーヒーになるまで辿った人って、そうはいないと思うんです。そういうことに憧れをもっている人たちをホストファミリーの家に招いて、ホームステイしてもらって、コーヒー農園に案内する、そんなツアーとか企画したら当たるんじゃないかなって勝手に考えたんですよ。通訳は僕がして。
(永)行きたい、行きたい。
(菊)パナマにいるときに、ついでに、他の国も全部見たいなと思って、中南米をダーッと旅して回ったんですが、せっかくだから、コーヒーをテーマにこの旅をしてみようと思いました。
一番印象的だったのは、グアテマラに行った時。
グアテマラは、語学留学という名目で行ったので、2カ月ぐらい滞在したんです。その間に、コーヒー農園に取材に行ったりしました。僕が行ったのは、大企業が取り引きするようなきれいな場所じゃなくて、地主に搾取されているような名もなき貧しい農園。いくらでたたき売ってるのとか、生活はどうしてるのとか、そんなこと聞きましたね。
取り引きしてもいいよって言ってくれる人も出てきて、連絡先を交換し、日本に帰ったら連絡するよなんて言って、帰国したのがこの3月。さあやるかって思ったところに、新型コロナで出鼻をくじかれまして。
菊地康介ロングインタビュー 目次
|0| 菊地康介という若者
|1| フリースクールで培った「自由」
|2| パナマの寒村に飛ばされて
|3| 新型コロナでビジネス計画が白紙に
|4| モットーは「人生を丁寧に」