アドベンチャープレス Vol.5【96/9月号)_懐かしく読む


オペル冒険隊賞事務局発行

夏も終わり、今年も各地から数々の冒険の成果が寄せられてきました。こうして、冒険というものに関わり、様々な情報に触れてみると、日本人もずいぶん頑張っているな、と改めて感心します。そしてそれは単に行動のレベルが上がったと言う事だけではなく、個人個人のチャレンジスピリットというものがようやく市民権を得出したことの表れなのではないかと、思います。頑張れ!冒険者達。

冒険、その不思議な魅力 辰野勇(オペラ冒険大賞選考委員)

 何故、山に登るの? なぜ、そんな危険な思いをしてまで、誰も下ったこともない激流を下るの? 楽しいの? 恐くないの? 常人が冒険者に対する素朴な質問である。

 著名な登山家マロリーは、「そこに山があるからだ」と答えた。「いかにも!」と言いたくなる明瞭簡潔な答えだが、こうなるともはや禅問答の世界である。

冒険その不可思議な魅力。何故?!

その答えを見極めるために私自身、冒険を続けてきたのではないかと思えるふしがある。

 あくなき探究心と好奇心。これこそ、この地球上で、唯一人間だけに与えられたサガではないか。ナマズを初めて食べた男(女だったかもしれない)も、月に初めて降り立った男も、人がやらなかったことを初めてやったと言うことにおいては同じ意味での評価が下されるべきだと私は思っている。未開の領域にリスク覚悟で最初の一歩を踏み入れることこそ、冒険の最大のテーマではないか。99%の可能性を確信していても、最後の1%はやはりやってみなければわからない。

 リスクが大きいほど危険度が高くなる。しかし、そのリスクは決して50%を超えてはならない。なぜなら50%を超えるリスクは、賭(バクチ)、以外の何物でもないからだ。冒険家たちは過去の経験に裏付けられた判断をよりどころに、限りなく50%に近づくリスクを求めつづける。

 あらゆる分野で、キリの先をもむようにその先端を刻んできた人々がいたからこそ、今日の快適な(少なくとも人間にとっては)生活空間が実現した。反面、科学が進み、今や人間の力の及ばない領域を探す方が難しくなった今日、驚異的な技術の進歩が招いた、行き過ぎた開発。いつの間にか人間は、パンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。

 冒険が“挑戦“と“征服“の二文字で完結する時代はもはや終わった。限られた環境の中で、この先我々がいかにうまく自然と付き合っていくかが大きな課題だと、私は思う。

(たつの いさむ 1947年、大阪生まれ。21歳でヨーロッパアルプス・アイガー北壁日本人第2登、81年にはカヌーで黒部川の初下降をするなど、アウトドア全般に渡ってアクティブな活動をする。モンベル社長。)

95年夏、タンデム自転車日本縦断に挑む、今井=稲葉ペア

タンデム日本縦断の旅

今井裕二(オペル冒険大賞95チャレンジ賞受賞)

 昨年の7月26日の朝に東京のラッシュにもまれながら、2人でタンデム自転車をかつぎ、飛行機にて午後1時に稚内空港に到着。そして自転車を組み立てて、2時前にまず日本最北端の宗谷岬に向けてペダルを漕ぎ始める。真夏であるが、さすが北国だけあって肌に当たる風が心地良い。追い風にも乗って平均40km以上のハイペースで北緯45度31分の日本最北端に到着。ここにある北極星の一稜をデザインした記念碑を自分の手で感触を確かめる。「さあ、ここからが日本縦断の旅の出発だ。」

 樺太が見えているオホーツクの冷たい海水を手ですくい、口に運ぶ。これから果たしてどこまで何かできるだろうか。まぁ行けるところまで行ってみよう、ということで腹膜透析の稲葉さんと視覚障害者である僕との「タンデム日本縦断の旅」がスタートした。

 スタート後間もなく、それから終始苦しめられた逆風の南風に邪魔される。タンデムは重い分、向い風に弱いのだ。そして一日目稚内の民宿に着いて間もなく、パトカーがやってきて警官に旅をやめるように説得される。あとでわかった事だが、僕らの記事が新聞に載ったことで警視庁から各警察署に通達が回っていたそうだ。日本は唯一タンデムで行動を走れないのだ。そのため逆風・雨・夏の日差し・ケガ・自転車の故障以外にも「全国のおたずね者」として行く手を阻まれた。

 しかし、道中でのいろんな人々に助けられながら、8月22日の午後7時に日本最西端である与那国島の西崎に到着。宗谷岬と同様風は強かったが、温度や湿り加減や風の臭いが全然違った。夕焼けに染まる台湾のある西空を眺めながらこう思った。「自分の足で狭い日本を旅すると、日本も地球も大きく感じるなぁ。」

 視覚を失うと、確かに行動しにくくなるけれど、体を動かした時に目以外のいろんな感覚で楽しめることを今回の旅で改めて感じた。また、次はどこに行こうかな…。

(いまい ゆうじ 1967年、兵庫県生まれ。高校生の時から進行性の網膜色素変性症にかかり、現在ほとんど視力がない。盲学校を経て、現在淡路盲学校教諭。稲葉さんとは大学時代の同輩)

障害を乗り越える旅
稲葉陽一(オペル冒険大賞95チャレンジ賞受賞)

 今回の旅では様々な規制、障害があった。私は腎不全を患い、毎日4回の透析が必要、今井は視覚障害者だ。透析液はあらかじめ宿に発送しているので、予定の変更は不可能、毎日150kmの強行軍である。おまけにタンデム走行はほとんどの都道府県で禁止されているのだ。にもかかわらず7月26日、私たちは宗谷岬を出た。私は過去、単独での日本縦断に成功している。要領は分かっているつもりだが、今回は2人なのでうまくいかない。

 私は長距離型なのに対し、彼は短距離型、コンビネーションは最悪だ。1日の平均速度が20km/hに満たない日も多かった。装備も医療器具を満載していたので重く、タイヤも700Cだったのでバーストも数知れず、スポークも30本は折れた。

 しかし快挙もあった。箱根を全てペダリングで越えた。途中、今井が崖から転落し、両足に大怪我をしたのにだ!下りは自重もあり、80km/hを平気で越えた。

 助けたり助け合ったりしながら8月22日ようやく与那国島に着いた。大抵の日本縦断は鹿児島の佐多岬で終わっている。私はそれは認めない。果てから出発したのならやはり果てまで行くべきだ。日本縦断は旅行と言うより試練に近い。そこにはスタートとゴールがある。私達はそれを成し遂げた。障害者だからやったのか、障害を振り払うためにやったのか、その答えは今後の生き方で見えてくるはずだ。

(いなば よういち 1967年、熊本県生まれ。94年に慢性腎炎にかかり、95年から人工透析を定期的に受ける。95年オペル冒険大賞チャレンジ賞は、今井さんとのタンデム自転車日本縦断で受賞。現在はパラパントにチャレンジ中。)