リペアカフェと衣の自給
都市の展覧会 for Cities Weekに、リペアカフェと、衣の自給にかんして出展した。
展覧会のテーマは「作品としての都市」。都市は、そこで生きる人たちが、生きることをとおして作っている。そういう意味での「作品」なのだと理解している。
作家の署名が刻まれ、その名前とともに歴史に残るような作品ではなく、ふつうは作品と呼ばれないような目立たない作品たち、控え目な作品たちに注目したい。そこには、家事としてなされる調理や掃除や洗濯や介護が含まれる。そして、数十年前まではそのような家事であったものとして、身の回りのものの修理や衣服の制作といったことがある。
作品としての家事。そのような言い方はアレント的な活動と仕事と労働の区別を前提とすれば矛盾しているように聞こえるかもしれない。しかし、一方に都市を運営し生み出すパブリックな活動や仕事があり、他方に家の中で生命を維持するためのプライベートな労働があってこれを支えているという、奴隷制の上で成立した古代ギリシャ社会に由来する考え方を引き継ぐ必要はない。プライベートなものとパブリックなものが現代では相互に混ざり合っている。自家用車に乗るか自転車に乗るか、スーパーで何を買うかといった選択が、ひいては環境危機をもたらす。SNSでのひとびとのつぶやきが、ひいては社会的分断をもたらす。結局のところ、どのような行為も、多少は公共性をもっている。暗黙的であったとしても、政治的な対話に開かれた価値観の表現なのである。古代ギリシャのプライベートな領域とは、奴隷や女性から公共的に価値観を表現する自由を奪うことで生み出されたのではないのか。それなのに現代の私たちは、自分の行為に公共性がないと思うことで、自分たちを奴隷化している。自分の行為をあくまでプライベートな労働や手段でしかないものとしてみなす習慣をつけてしまったのだ。こうして、最短ルートで目的地に行こうとか、時給換算でどの仕事が得かとか、コスパが良い商品を買おうとか、そういうことばかり考えてしまう。そういう手段として労働として合理化された行為が、総体として地球や社会に影響をあたえている。私たちは、そのような帰結に責任がないと思うことにしている。たしかに個人の振る舞いが与える影響はささいなものだし、立証もできないから、多くの場合は何も賠償責任のようなものは生じないだろう。けれどもやはり、私たちは価値観の表現としての自らの行為にかんして、応答可能性という能力の意味で、責任(response+ability)をもっているはずだ。
イリイチの言うシャドウワークの問題も、家事から公共的責任が奪われている問題なのだと思う。シャドウワークとは、消費社会を陰で支えるための無報酬の労働である。家事はその例である。問題は、家事を有償にすればよいということではない(それによって家事が商品化され市場経済に組み込まれるだけだから)。市場価値だけが価値であるかのようにみなされ、賃労働だけでなくそれいがいのあらゆる行為が市場価値に従属するようになる。こうして、人々が自らの公共性と責任を放棄してしまうこと、自らを蔑むようになることが問題なのだ。
ひとびとが自律性たかめ、市場への過度の依存から脱却するためのものとしての、つまりイリイチの語でいえばコンヴィヴィアルな、家事のあり方を構想したい。自律的であるとは、自らの価値観に準じて生きることを通して、その価値観についての探究がなされているということである。価値観を表現し、他者からフィードバックを得ることを通じて、他者との対話のなかで、探究がなされる(他者とは人間以外でもいい)。家事はそのような探究としてなされるときこそ、コンヴィヴィアルである。探究は、異なる価値観からの視点を必要とする。だからそのような家事は、個人や家庭やコミュニティに完結するものではなく、都市的な公共性を帯びるのではないか。
調理や掃除や洗濯や介護は、その産業化と商品化が進んだ今なお、多少はふつうの人々によってもなされている。過去には、身の回りのものの修理や衣服の制作も、そのような家事の一部や延長線上にあった。もちろん専門家に頼むこともあっただろうけれど、ほとんどの家庭に大工道具や裁縫道具はあった。ただし近代以降の家事としての修理や衣服の制作は、多くの場合、家庭の中で閉じてシャドウワークとしてなされていただろう。将来のコンヴィヴィアルな家事とは、都市に開かれた公共的なものとなる。
今回の出展は、プライベートな労働としてみなされてきた家事を、都市的で公共的な対話の場にもちこむ試みである。身の回りのものを修理する「リペアカフェ」と、衣類の自給にかんする展示とワークショップを行う。
リペアカフェ
リペアカフェはオランダで始まり世界中に広まっている、モノを修理する集まり。組織のロゴとウェブサイトを載せておく。一定の条件を満たせばリペアカフェを名乗ることができる。
文化財的なモノや、市場価値があるモノなどは、専門家が対価を得て修理するのが良いだろう。しかしその恵みを受けるのはごく一部のモノたちであり、多くのモノたちは一般的価値を認められずに廃棄されている(「修理するより買ったほうが安いよ」)。そこで、コミュニティーベースでアマチュアがモノを修理できるような環境があったらよいと考えている。
私としては、ここには、二点の関心が関わる。一つは、将来的には、(自分もふくめて)人々が、あまりお金に依存せずに生活できるような環境を整えたいということそのために、これまで市場で購入していたものを、顔の見えるコミュニティのなかで生産あるいは修理できるようにしていきたい。もう一つはモノとの関わりについて。モノを資源や商品として消費するというのではなく、なんらかの主体性をもった存在としてみなして、それと対話する。そういうモノとの関係性が重要なのではないかと考えている。
そういうことで、京都くらいのスケールで、モノの修理について技術を交換したり、それにかかわる物語や思想について話しあったりできるコミュニティが育まれると嬉しいと思っている。
何年か前にもリペアカフェをしたことがある。その時の文章。
リペアカフェでどんなものが修理できるのか。
昔のものは大体修理できることが多いです。
一般的にいって、最近のものほど修理が難しい。
(ただ、部品の手に入れ易さという観点では、最近のものほど修理し易いかもしれないけれど。)
最近のものの修理を難しくしている原因に、コンピューターとプラスティックがあります。
近年の家電や、(修理したことないけど)車やバイクはコンピューターがたくさん入っているので、なかなかそこが壊れると素人には修理が難しい。
あと、プラスティックは素材じたいが劣化するから、これも修理が難しい。
僕は、50年前の自転車や電化製品や何かを使っているけれど、今新品で買う自転車や電化製品が同じように50年後に使える状態を保っていることはほとんどないだろうと思う。
コンピュータやプラスティックの導入を、メーカーは安くて便利にするためだと言うでしょうけれど、買い替えを早めるため、という目的が隠れている。
ユーザーが修理して長く使えるものを売っていては儲からない。
あとは、責任、という考えが素人の修理をむずかしくしている。
素人が適当に修理しては、責任を取れないと、メーカーは素人の修理を禁止する。
(そして、話はすこしそれるけれども、正しい使い方以外の使い方も禁止する。)
また素人なのにプロに任せず自分で修理してしまうのは、無責任だとされる。
事故がおきたらどうするんだと。
たしかに車や家などにおいて、素人の修理が命にかかわることもあるから、この主張はもっともらしい。
まあ、靴や時計の修理で事故が起きることは少ないけれど。
けれども、責任って、なんなのでしょうね。
語源からするば、責任というのは、応答可能性ということで、話し合いに応じれること、だと思うんですけどね。メーカーの責任というのはこの意味では使われてないですよね。
どうも、メーカーの責任という言葉は、製品が原因となる事故やトラブルにたいする損害賠償を引き受ける条件についての社会的に共有された規範、みたいな意味で使われていそうです。
ユーザーはモノを修理する自由をひきわたすかわりに、製品が引き起こすトラブルや事故に関して、メーカーに損害賠償を求める権利をえる。
こういう取引というか、役割分担のようなものが現代では当たり前のものだとみなされている。この、社会的に共有された役割分担みたいなものを崩すから、素人の修理は無責任だとされることがあるのではないでしょうか。
ただ、この役割分担をあんまり極端に進めた結果、生産者と消費者の断絶がうまれ、両者にとって辛いかんじになっているのが、現代であるようなきがします。
メーカーはクレージークレーマーにびくびくしないといけなくなり、他方で、ユーザーは自由にモノと関わることができなくなる。
相互のコミュニケーションがどんどん防衛的になっていって、応答可能性という意味での責任がうしなわれていく。
なんとなくそんなふうに感じます。
ユーザーとメーカーのあいだのグラデーションを作って行って、応答可能性、責任をシェアしてくことが求められている。
今回の様子。
修理したものの写真と修理内容をメモにして展示した。
衣の自給
なるべく身の回りのものを自分たちで作りたいと思っている。全て自分だけで作るのが良いとも思わない。自分だけではできないから、人とつながるということがある。顔の見えるコミュニティのなかでいろいろ作れると良い。それによって市場経済への全面的な依存からすこしはなれて、お金がなくてもそれなりに生きていけるような感じにしたい。
自分は衣類を作っている。京都では着物の生地が安く手に入るので、それをつかったりする。和服は直線的なパターンなので、裁断時に無駄がでない。そういうところを参考に、着物生地の幅を使って簡単につくれる、直線的なパターンのシャツやズボンをデザインした。
https://note.com/hylozoic/n/ne4e1dd7416db
材料から作りたいと思っている。人類の最初の衣類は革だった。そこで革なめしを試してみた。イノシシや鹿の革をなめして靴を作ったりした。
(ちなみにこの靴も最近修理した。鹿革のライニングが割けたので交換。ターンシューという裏表にひっくり返してアッパーとソールを縫う製法なので、ひっくり返して交換する。
人類史をたどる形で、次は布を作りたい。京北で、有志数人で綿花を育てている。昨年収穫された綿花を紡いでいる。織機をもらった。今後は布を織りたい。
すこし大きな話をすると、環境への服飾産業の与えるダメージが問題になっている。工業化された綿花農業は水と農薬を大量に使用するものであり、中央アジアなどの生産地域の環境に壊滅的な打撃を与えている。その安価な材料を用いて生産される衣類には、先進国において新品のまま廃棄されるものも多い。服飾産業における「計画的陳腐化」(消費を増やすために計画された短いスパンの流行の変化)はその一因となっている。
ファストファッションは、ある程度豊かな国々において、金持ちも貧乏人も誰でも同じように綺麗な服装をすることができる条件を生み出した。そのことは評価すべきなのかもしれない。
とはいえ、衣類ともうちょっと良い関係を持つことが可能だと思う。
衣類を家庭で生産することは、日本において、またおそらく世界の多くの場所において、数十年前までは普通のことだった。昔に戻るのが良いというわけではないけれど、少しは衣類を自給してみると、色々見えてくることがあるだろう。