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アテンション・エコノミーとケア:一般社団法人一人一人社について(3)
一般社団法人一人一人社という法人に参加しています。また始まっていませんが生活介護という障害者のかた(とくに知的障害を想定しています)が日中過ごす場所を運営します。何を期待して福祉施設を始めるのか、おもうところを書きました。(1)ではアナーキテクチャーという概念について、(2)では二元論的存在論の問題、(3)ではアテンション・エコノミーとケア、ただ「すごす」ことについてなどについてのべます。
■生産しないこと
一緒に法人をやっている高橋さんのやっていた「無職インレジデンス」というイベントを面白いと思った理由として、何もしないということの価値への関心があります。今回の福祉施設でも、利用者は何かを作ってもよいけれど作らなくてもよい、ただすごすということを大事にしたいというのが高橋さんの意図です。これはとても良いコンセプトだとおもっています。
基本、生産的であることに価値が置かれる世の中で、何もしないでいること、怠惰であることはとてもネガティブにみなされています。でも、これはちょっと変わっていく過渡期にあると思います。そもそも、生産的であることに価値が置かれていた背景として、20世紀の経済成長のなかで生活水準の上昇を身に感じながら生きていると、がんばって仕事をすると自分やその周りが豊になるだけではなく社会全体が豊になることにも貢献できる、ということが信じられていたということがあるとおもわれます。江戸時代とかまで遡るときっとそうではなかったかもしれないのですが、まだ調べていないので置いておきます。とにかく、労働が価値の源泉であるということが前世紀は素直に信じられたように思います。で、今現在は、そういう信念がなかなか成立しなくなってきています。アクターネットワーク的な考えでは、自然と社会のハイブリッドが価値を生み出しているということになるから、社会と自然のどちら一方に価値の源泉をもとめることはできないというこになるでしょう。とはいえ、環境問題や気候変動によって、価値が自然に依拠しているという事実が露呈してきています。人々が仕事をしてエネルギーと資源を使用するほど、個人や資本家は豊になるとしても、長期的な目で社会が自然から贈与される資源の量が減るということが見えてきました。すくなくともいままで同じようにエネルギーと資源を消費する仕方で仕事するならそうです。資本主義をおしすすめようとする人たちはオンラインの仮想空間における経済循環を増やすことで資源の有限性から経済成長を切り離そうとしているようです(エコロジーと経済のデカップリングとよばれている)。とはいえ、そのような切り離しが可能なのか、可能であるとして望ましいのか、はなはだ疑問です。生態系の保全など、長期的な目で自然から贈与される資源の量を増やすことに貢献する仕事もありますが、これは現在における資本の成長を妨げるからあまりお金にならないことが多い。一方で、他の多くの仕事は、お金になるとしても、結局長期的な視点で社会のためになっているのかわからないと、人々はどこかで気づいていると思います。衣食住など生きるために必要なものの生産の重要性は今後もかわることはないでしょう。しかしAIやロボットの技術革新で、これまで人間がやってきた仕事だけど人間より機械のほうがうまくできる、ということは増えると良く言われています。それがどの程度本当なのかよくわかりませんが、いずれにせよ人間がやるべきブルシットではない仕事とは何か、ということが問われてきます。
■アテンション・エコノミー
そこで、価値の源泉にかんするもう一つの視点が重要になります。それは他者からのアテンション(注目)が価値の源泉だというものです。これはアテンション・エコノミーという言葉を有名にしたアメリカの社会学者マイケル・ゴールドハーバーの考えです。アテンション・エコノミーとは、「情報の質よりも人々の関心や注目を集めた方が経済的利益が大きいことを指摘した経済学の概念」、と説明されますが、ゴールドハーバーの主張はこれより根本的なものです。経済的価値は希少性によっているが、インターネットの発展により人間の有限のアテンションが貨幣に替わる希少な財になった。なので、封建制と資本主義経済が全く違うのと同じくらい、資本主義経済とアテンション・エコノミーは違ったもになる、というのが彼の意見です。アテンションはお金では買えないこととか、お金がなくてもアテンションがあれば生きていけるようになるといったような話を彼はします。僕としては資本主義はもっと根深く、アテンションも貨幣に換算されるようになってきていると思います。じっさいSNSではお金を払って広告を出してアテンションをあつめることがなされます。とはいえアテンションが希少になり価値をもつ、という点には同意します。前近代の村社会を想像すると、知人以外からの情報というのはあまり多くなかったかとおもいます。人々は簡単に他者からのアテンションを調達することができた。インターネットに先んじてマスメディアの発達がこの希少化を推し進めたとおもいます。村人の話をするかわりに芸能人やスポーツ選手の話をするようになる。それがインターネットやSNSの発達によって、世界中の人が世界中の人とつながることで、さらにアテンションが偏在化する。たくさんアテンションを集めるインフルエンサーとそれ以外の無名のひとたち。後者が何かを表現しようとしても、まわりはインフルエンサーばかりに注目している。多くのひとは十分にアテンションを得られなくなっています。アテンションが得られないこと、あるいは孤独は、現代社会のとても大きな問題です。それは人間にとってつらいことです。世界観を他者とともに作っていくことに参加できないということだからです。
アテンションへのニーズは、承認欲求という言葉でひとくくりにされて、なくても良いものであり、それをもつことが恥ずかしいことであるかのようにみなされることもあるようです。しかし、人は、自分の感じたこと、経験、思考を表現し、まわりからフィードバックを得ることへの欲求をもっています。表現とフィードバックの循環のプロセスによってのみ学習、あるいは探究ができるからです。世界観に変化をもたらさないままで好ましい情報を得ることを快楽とよぶなら、ウェルビーイングは快楽に還元できません。探究は、世界観の更新をもたらします。この更新がもたらす喜びがウェルビーイングには不可欠です。人間以外のモノからのフィードバックもだいじですが、価値にかかわる探究においては、とくに他の人間からのフィードバックを得ることが不可欠なのではないかと思われます。僕はこういうものが正しいしいと思うと表現し、他者がそれにたいして、いやそれは正しくないとか、たしかに正しいとかいう。そういったやりとりなしに、美学・倫理学的な価値観が展開することはない。哲学者C.S.パースがいうように探究はコミュニティによってなされます。他者のアテンションへの欲求は、探究のためのフィードバックへの欲求としては、望ましいものです。
■誠実なアテンションとしてのケア
ゴールドハーバーと異なり僕は現在のアテンション・エコノミーも資本主義の延長線上にあると考えています。ポスト資本主義なアテンション・エコノミーを求めることは、アテンションの質を問うことにもなります。
たとえば、差別主義的な価値観をもったときに、十分にまわりからアテンションを向けてもらっている環境では、それは間違っているとフィードバックが得られ、それをきっかけとしたモデルの修正がなされることが期待されます。それが、まわりからアテンションを向けてもらえない環境では、価値観が修正されようがない。他方で、差別にたいしてそれを促すようなアテンション得られる環境では、差別的な価値観が強化されるということもありえる。ここでアテンションの質をかんがえないといけないとはおもいます。アテンションを求めて極端な発言をするということが、資本主義的なアテンション・エコノミーにおいて生じます。差別主義的な発言はその一例です。資本的なアテンション・エコノミーとはコミュニケーションというアテンションの市場におけるアテンションの占有を目指した奪い合いです。そこでは、定型化した表現と、相手をカテゴライズして批判したり褒めたりするようなフィードバックがひろまります。典型的には、藁人形論法や、偶像化です。こうしたフィードバックは、既知の世界のモデルに人を閉じ込めたままにするものであり、探究の糧になりません。
ポスト資本主義なアテンション・エコノミーのあり方を探りたいところです。質の良いアテンションとは何か。それは相手をカテゴライズして批判したり褒めたりするのではくて、一人の相手として向かい合うものであるように思います(ブーバーのいう「我ー汝」の関係というのはそういうことかと)。カテゴライズして分かった気にならずに、一人の相手として向き合うという態度を「誠実」と呼んでよいとおもいます。他者への誠実なアテンションというのが、人間がするべきブルシットではない仕事であるようにおもえます。そして、ケアとはまさにこの誠実なアテンションのことではないかというのが、僕の考えです。
自分が書いた文章にかんして、AIからのフィードバックもやくにたつでしょうが、それだけだと僕は寂しいはずです。AIにとってみれば僕は何億人のうちの一人です。人間のアテンションは有限です。インターネットの発展がアテンションの希少化をもたらしました。そこでアテンションの分配がとわれます。自分は誠実なアテンションを求めているのに、他者へはそれを与えないというのはフェアではありません。相互的で誠実なアテンションの循環をつくっていくとよいとおもいます。資本主義的なアテンション・エコノミーにおいては、アテンションの量をもとめたアテンションの奪い合いがうまれ、アテンションの格差が生じます。これに対抗する相互扶助的なアテンション・エコノミーが求められる。
市場での交換ではどちらがお金を払うかでどちらが生産者か消費者かが決まっています。仕事とは生産であるとかんがえます。アテンションが払われる先のコンテンツを生み出すことが生産であり、それにアテンションを与えることは消費であるとみなされます。他方でケアのばあい、ケアするほうが生産であり、ケアされるほうが消費であるとみなされています。誠実なアテンションをケアと同一視する見方は、一方における消費を他方においては生産をとしてみなすことになっています。じっさい、どちらが生産でどちらが消費というのは常に反転しうる。
コミュニケーションというアテンション・エコノミーにおいてアテンションを集めやすい表現をすることは、市場経済において人気を集めそうな商品を作ろうとする生産と類比的に考えることができます。商品はカテゴリーに収まることで値段がつきます。しかしカテゴリーに収まった商品は、快楽を与えるとしても世界観の更新のきっかけにはなりません。どういう言葉を具体的に使っていたか忘れましたが、高橋さんが福祉に関心をもつようになったきっかけは、障害のある方と一緒にすごすことが、予想から逸脱し、既存の世界観を揺るがす経験となるということでした。予想から逸脱し、既存の世界観を揺るがすもの、それを本来的な意味でのアートと呼んで良いかもしれません。そのようなアートが世界観の更新のきっかけとなります。生産しないこと、カテゴリーにおさまらない仕方でただ「すごす」ことは、この意味においてアートたりえます。しかしそれがアートであることは誠実なアテンションによってのみ気づかれうる。