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共鳴する身体と物質のシンポイエーシスアナーキテクチャーとしての蟻鱒鳶ル3
蟻鱒鳶ルの建設にかかわった人たちが寄稿するジン、「月刊蟻鱒鳶ル売り鱒」22号に掲載した文章です。木村編集長の許可を得て一部を転載します。紙媒体の冊子はここから買えます。
蟻鱒鳶ルを覆う足場が解体され全貌をあらわしました(写真1)。これで一旦の完成で、あとは来年に予定されている曳き家の準備にはいるようです。屋上のガーゴイルもできてコンクリートの打設がおわり、窓枠にはガラスが嵌められました。最後のガーゴイルの型枠はタイガさんが作りかけていたけれど上手くまとまらず、結局ミチルさんが作ったようです。設備の工事もすすんでいます。トキメキ水道の轟さんがくねくねした雨どいをつくりました。初めて見るかんじです。ファサードのドアを潮さんが完成させました(写真2)。最初は中華鍋をたくさん集めてそれで作る案もあったようですが、鉄板を折った三角形のパネルから構成することにしたようです。潮さんのドアの立体的な感じは、前々号でふれた僕が作った奥のドアに影響を受けた部分もあるそうです。嬉しいです。僕は鉄筋のフレームに鉄板を貼るつくりでしたが、潮さんは鉄板だけで成立するように作っています。高い技術をうかがわせます。結晶のようなバキバキとした感じの三角形からなる構成は、先行してカナタさんが三階のあたりで作っている窓(写真3)とも共通するものです。この三角形から成る窓は蟻鱒鳶ルの各所にみられます。蟻鱒鳶ルの不定形の開口部に窓をつくるにあたって、これを三角形に分割するというのは合理的なアプローチという面もあったとおもいます。さらにこれを展開して三角形が立体的に凹凸をつくるようになると結晶的なバキバキとした感じになる。京都に住んでいる僕は、原広司の京都駅をすこし思い起こしました。カナタさんは凹多角形や曲面を取り入れた窓枠(写真4)もつくっていて、そこにはめるガラスは、通常のように折って成形できないから大変なのですが、辻さんが頑張ってきれいに切り出しました。僕は関わっていないのですが、はめるのも大変だったようです。僕の方では玄関のドアをつくりました(写真5)。玄関はDNAのような螺旋状の柱を伴いながら立ち上がる屋外の吹き抜けに面しており、この吹き抜けにそって各階をむすぶ階段につながっています。そこでこのドアは垂直性を意識したデザインとしました。また、玄関上部の天井にあった水紋のようなモチーフを反映して円弧状断面としました。ドアの隙間から水紋が出ている感じになるようにスリット状の窓をつけました。ドアの右にはタイガさんのつくったレリーフ状の壁面があります(写真6)。鉄筋が飛び出したり、角のように飛び出たコンクリートがあったり、何か爆発的な、荒々しく複雑な造形です。これと対比するとドアはシンプルな佇まいとなっています。この荒々しい壁とドアの間の部分は、この二つの方向性の違いを結びつけようとするものです。タイガさんの飛び出した鉄筋を延長させ支持に使用しています。辻さんが切り出したガラスの端材を使ってステンドグラス状(色をつけるという意味ではなく、小さいガラスに分割された面という意味)にして、爆発的なところを引き受けながら溶かしていく、そういうような感じをイメージしています。この部分はロッテさんがモルタル左官で隙間を埋めて、カズノさんがシリコンコーキングをしました。ロッテさんはガラスを砕いた粉をまぜたモルタルを使うことを提案したそうですが岡さんに断られたみたいです。カズノさんはあえて波打つようにコーキングをしてくれました(写真7)。こんなの初めて見ます。
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シンポイエーシスとしての建築
さて、蟻鱒鳶ルの非アルベルティ・パラダイム的な性格のもつ意義についてかんがえてきました。前々回のまとめとして次のように述べました「建築はアルベルティ・パラダイムから抜け出すといいと僕はおもっている。すなわち、空間的な形態やコンセプトを建築だと思うのではなくて、空間を生み出す雑多なものごとが、集中的にコントロールされるのではなく、分散的に相互作用しながら展開することを支援する技術として建築をみてみる。オートポイエティックなシステムとしてだけではなく、シンポイエティックなシステムとして建築をみるということです。次に、アルベルティ・パラダイムにおいて伝統にかわって自律的な個人が形を生み出すことになったのだけれど、これも批判しないといけない。自律した個人というかんがえかたは、近代的な意志とか責任とか公共性の概念とセットになっているのだから、それらもあわせて考え直す必要がある。」設計と施工を分けて、施工の前に完全に設計しきるというのがアルベルティ・パラダイムであり、ルネサンスの時代にアルベルティという建築家が主張し、近代の建築の基本となったものです。彼は物質によって作られた個々の建物ではなく、精神によって構想された形式が建築作品であると考えます。これは建築の仕事を知的で理論的なものであるとして、他の職人の仕事と区別する役割をはたしました。建築を生み出す精神としての作者、建築家が、特権的な立場を得ます。現場で働いている人は設計にしたがうだけの存在になりさがります。こうした建築観は、オートポイエーシス理論にもとづくパトリック・シューマッハーの建築理論にも引き継がれています。オートポイエーシス理論はもともと生物学から生まれたシステムについての見方で、外から観察されてコントロールされるシステムではなく、内側から再帰的に観察され自律的に作動するシステムを意味します。ルーマンが社会学にオートポイエーシスの考え方を導入して、シューマッハーはそれを建築に応用しました。シューマッハーは、社会の空間的な枠組みの機能や形態についての知的で理論的なコミュニケーションの継起が建築システムであると考える。建築のコンセプチャルなことにかんする言説こそが建築だということになる。このような建築の捉え方は現代における建築のあり方に当てはまっているけれど、だからこそ批判されないといけないと考えています。つまりルネサンス以降の建築において設計と施工が引き離されてきましたが、現代においてはさらに建築は社会からきりはなされている。この切り離しを正当化する理論になっている。それがシステムの自律性を強調するオートポイエーシス理論の問題なのではないかと思います。オートポイエーシスにおいて、システムの境界はシステムじたいによって規定され、システムの外部、環境は、システムを攪乱するだけです。オートポイエーシスの考え方への批判から、ダナ・ハラウェイという哲学者がシンポイエーシスsympoiesisという言葉を使っています。オートポイエーシスは自らを作るという意味ですが、シンポイエーシスは一緒に作るという意味です。異なる存在が共生し、相互に生み出しあっている。それぞれの境界は自己によって規定されるのではなく、他者との関係のなかで生まれる。建築もまた、そういった見方で捉えられるべきでしょう。オートポイエーシスの考え方が前面的に間違っているわけではありません。外部からコントロールされたシステム(ファーストオーダー・サイバネティクスと呼ばれます)には欠けていた、システムの自律性の視点を導入したという点でオートポイエーシスの考え方はとても大事だとはおもいます。しかしそれはシンポイエーシスの考えによって補われないといけない、あるいはシンポイエーシス的な事態を考慮するものに拡張されねばならない。シューマッハーがいうように近代以降概念的なコミュニケーションとしての建築が自律的に展開しているという面があります。アルベルティ・パラダイムに従う以上は、建設現場ではたらく人間の身体や心とか、実際につかわれる物質の固有性とはきりはなして、建築の概念を扱うことになります。しかし建築は、概念的なものだけではなく、設計や建設や利用の現場における人間の心や身体、そして人間以外の生物や物質が、共生のなかで相互に生み出しあう事態として理解したほうがよい。そのようにシンポイエーシスとして建築を捉える枠組みや設計方法論を考えたい。
前々回の寄稿のタイトルを「共に生きることからの建築の離床」としました。その説明が不足していたかもしれません。社会からの経済の離床というアイデアに由来します。経済学者のカール・ポランニーは資本主義社会における市場経済の自律化と自己目的化を批判し、これを社会からの経済の「離床」と呼びました。ポランニーは、互酬、再分配、交換という三つの経済的パターンを区別しました。家が必要というときに、村人総出で作るというのは互酬、国が徴収した税金で公共住宅を作るのは再分配、市場においてハウスメーカーから購入するのは交換です。市場における交換は古来から存在しました。しかしそれは、互酬と再分配と共存しながら社会に埋め込まれていた。資本主義社会においては互酬や再分配が縮小し、交換の領域が全面化します。市場経済の論理が自律的に展開し、資本の増殖のために自然や街が開発され、仕事や商品がつくられます。その結果、社会と呼ばれる物事や人間のネットワークが分断され破壊されています。たとえばジェントリフィケーションの問題です。まさに蟻鱒鳶ルが飲み込まれている再開発のことです。蟻鱒鳶ルは立ち退きを免れましたが、再開発においては家賃の安い古い建物が壊されて家賃の高い新しい建物に置き換えられます。個人経営の安い店はなくなって、大資本のチェーン店やブランドショップに置き換えられます。それによって資本をもつものはお金が儲かるのですが、お金のない人は街からでていかなくてはならなくなる。経済の離床とおなじように、生活環境を設計し建設する活動としての建築は社会のなかに埋め込まれていたのが、近代以降自律的に展開して社会から離床した。建築界固有の価値観みたいなものが展開する。シューマッハーはこのオートポオエティックな自律性を好意的に捉えます。しかし僕としてはシンポイエーシスの面に注目したいということです。ただ、経済システムが近代以降、外部の価値を貨幣価値に置き換え取り込むことで拡張してきたことと比較すると。現代の建築システムは、外部の機能を建築的形態に置き換えて拡張することには成功してきていません。どんなことでも市場経済の視点で、つまり儲かるかどうかで捉えるみかたは一般に普及していますが、どんなことでも建築の視点で、つまり空間的な形態の問題として捉える見方は一部の建築好きだけのものです。
前号では服飾史のはなしとつなげつつ、建築史のはなしをしました。色々と話しましたが、ここでふりかえりたいのは、機能主義の問題です。20世紀にはいって登場したモダニズム建築において、機能に沿った空間的形態をうみだすのが建築だという機能主義が台頭します。それと共調して、設計とは問題解決であるという捉え方が普及するようになる。建築のはたすべき機能が問題を規定し、それについての解決を空間形態として構想することこそが、建築の設計だということです。今回はその話から始めようとおもいます。
「問題解決」という呪縛
設計方法論というデザインプロセス一般の構造を問う研究が学問的に始まるのは20世紀なかばのことです。第二次世界大戦中に発展した数理的な手法をもちいて設計のプロセスを合理化し、効率化しようというのが大きな方向性でした。その中で設計は技術的な問題解決として理解された。コンテクストが問題でありフォームが解決です。建築のばあいは、機能が問題としてあって、それをみたす空間形態を解決としてうみだすことが設計だとして理解された。たとえば建築家のアレグザンダー「形の合成にかんするノート」という本を書いて、「コンテクスト」に適応する「フォーム」を導くのが設計だとした。コンテクストが機能的な要求になっていて、それをみたすフォームを解決として導く。この問題解決のプロセスは、アレグザンダーもそうですが、しばしば「分析」と「総合」として理解しようとされた。これはデカルトが提案した方法です。問題を細かい要素にわけていって(分析)、それぞれの要素についての解決をつみかさねて全体についての解決にする(総合)。
この技術的問題解決としての設計というやり方はしかし、あんまり上手くいきませんでした。いや、月にロケットを飛ばすような課題にかんしては、上手くいったのですが、都市環境をデザインするというようなことにかんしては違った。合理的にデザインしたすばらしいはずの環境が、とても不快なものになったりした。そうして20世紀の後半にはいろいろと技術的問題解決としての設計という捉え方への批判がなされるようになる。固定的な問題があって、これについての解決が技術的合理性だけで可能だという見方が批判される。アレグザンダーは「形の合成にかんするノート」のすぐあとに「都市はツリーではない」という文章をかいて、建築や都市デザインの問題は階層的に分析に分析できる構造になっていないから自分が「ノート」で提案した方法は上手くいかないと反省しました。階段は上がり下がりするためだけでのものではなくて、そこに座って音楽を演奏したりするのにも使える。そしてその横の床はそれを聞くための席になる。こういったように都市空間のなかで、その要素の役割というのは複雑に絡まり合っていて、だからこその豊かさがある。それを上がり下がりにしか使えないように階段をつくったりすると、とてもつまらない環境になる。分析と総合というやり方だと、そういう結果をうみだす。ホルスト・リッテルは計画の問題は決定的な定式化ができない「いじわるな問題(wicked problem)」だといいます。設計はつねに価値観にかかわる政治的なものであって、科学的で合理的な設計など存在できない。ドナルド・ショーンは、設計の問題はあらかじめ決まり切ったものではなく、解決を与えるなかで明らかになっていくといいます。そして何が問題でありそれを解決するとはどういうことなのかを規定する「フレーム」が、設計のプロセスのなかで転換することに注意をむけます。ショーンは設計が「状況の素材との対話」であるといいます。状況の素材というのは建設中の建物でも、描いているスケッチや、あるいはクライアントなどの人間でもいいのですが、「口答え」(back-talk)をします。つまり、意図どおりにならない。素材からの意図せぬ口答えをきいて、設計者は「フレーム」を転換します。
このような批判があったにもかかわらず、依然として設計を問題解決として理解する見方は支配的です。この視点のなかで、建築は依然として機能に対応する空間形態を構想する問題として議論されつづけている。
コントロールと対話
技術的問題解決としての設計という捉え方では、設計のあつかう状況を捉える完全なフレームが暗に想定され、このフレームのなかでのパズル解きのようなものとして設計が構想されます。設計者はこのフレームの外部にいて、設計の対象を俯瞰して観察し、コントロールする。この捉え方のベースにあるのは近代の機械論的で二元論的な存在論です。
図1の上の図がこの「コントロール」的な存在論をしめしています。主体と客体、人間とモノ、社会と自然といった二元論でものごとをとらえます。客体(モノ、自然)は機械でありインプットにたいして法則的にアウトプットを返すとみなされる。この客体の法則性を主体が認識することが科学だとみなされる。で、主体が客体をコントロールすることが技術であり設計であるとみなされる。価値や目的、エージェンシー(動作主体性)とは主体の側だけにみとめられる。人間の目的のためにモノや自然を利用するという人間中心主義的な見方です。17世紀にデカルトとかホッブズといった哲学者が機械論的な自然観をうみだしました。ロックという哲学者が第一性質と第二性質ということばで、客観的な世界と主観的な世界を区別しました。それが近代の西洋世界の標準的なみかたになっていきました。アガンベンと言う哲学者がいってましたが、「意志」の概念は古代にはみられず、近代にうまれたそうです。非対称的にエージェンシーをもった特権的な主体としての人間、自律的な個人というのは近代のアイデアだといえる。で、この自律した個人を前提として責任とか公共性もまた、近代のアイデアです。建築にかんする言説はかならずしも機械論的ではないものもありますが、とはいえ、やはり主体と客体の二元論の影響はつよいでしょう。とくに建築家が建築を創造すると言う考えのなかにこの二元論がみいだされます。アルベルティ・パラダイム以降の建築家というのは、実際に建設が始まる前に建築の全体を構想する創造者であり、客体を外からコントロールする主体です。建築を創造しコントロールする自律した主体として、建築家は建築物にたいして責任をもつべきだということになっている。
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ところが20世紀の後半からこの二元論にたいしていろいろ批判も増えてきた。ブルーノ・ラトゥールのアクターネットワーク理論はそのひとつです。近年は気候変動などのエコロジーの問題があるなかで、人間中心主義的な存在論が批判されるようになっていて、そういうコンテクストでも注目をあびていますが、ルーツとしては科学論のコンテクストのなかで
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