佐々木くんとの対話、教育について

佐々木くんとの対話、教育について

序章


映像作家の佐々木くんと出会ってから随分時間がたつ。もっとも、最初に出会ったときには彼はまだ東京藝術大学先端芸術表現科の学生で、私はその学科の助手をしていた。助手というのは、文字通り、教授や准教授の手足となって講義や演習の準備をしたり、学科の機材やスタジオを管理したり、ときには学生の様々な(制作に関わらず)相談に乗ったりする役割だ。その後、佐々木くんは作家活動を続けながら博士課程まで行ったけれども、私は任期が来て途中で大学を出ることになった。その後も交流は続いたが、それはおもにオンラインのもので、たまに彼の作品を見ることもあったが、正直なところ、熱心な鑑賞者であったわけではない。そんな彼から突如メンター?としての依頼が来た。2018年7月のことである。

「ご無沙汰しております、佐々木友輔です。Facebookでお仕事募集の投稿を拝見し、ご連絡差し上げました。私は2013年に芸大を出て、大学関係の仕事をしつつ作家活動を続けてきました。しかし最近は、企画・制作・広報などを全て一人でこなして活動を続けることに限界を感じています。プロデューサー的な仕事ができる人と関わりを持てたら良いなと思いながらも、中々うまく行かず。高橋さんが想定しておられるお仕事の内容とはずれてしまっているかもしれませんが、今後の私の作家活動に関して何らかのかたちでサポートしていただく、というようなことをご依頼できないでしょうか。自分自身具体的なイメージを持てているわけではなく、漠然としたご依頼で申し訳ありませんが、もしお時間ありましたら、ご相談させていただけましたら幸いです。(佐々木)」

この依頼を受けて、当初は短期TODOと長期TODOの整理、それを中期TODOに落とし込むというメンターのようなお手伝いを定期的なオンラインミーティングで行った。しかし、しばらくすると、当初のカオス的な状況は整理され、私がいなくても、彼自身でそれらのプロセスを管理できるようになった。いまにして思えば、単にタスクの整理だけでなく、もっと彼の作家としてのプロデュースを出来ればよかったのだと思うのだが、映像の専門家でもない私には限界があった。定期的なメンタリングをやめてからしばらくして、改めて、私と何か協同作業をしてみたいという申し出があった。そのときに、教育の話なら一緒にできそうだと思った。たんに互いの経験や悩みをシェアするというだけではなく、だれか第三者にも見てもらえるような形で提供できないかと考えた。それがこの文章のできたきっかけである。

第1章 新しい学校

私はいわゆる「新しい」大学に深く関わってきた。学部は慶応義塾大学の湘南藤沢キャンパス(SFC)を98年に卒業したのだが、ここは大学改革のモデルと呼ばれたキャンパスだ。いまでは当たり前となったシラバスや学生による授業評価、最先端のネットワーク環境の導入などで90年の開学から世間で話題であった。私はそのSFCに1994年に入学した。前年の1993年の秋にNSCA Mosaicという、史上はじめて文字と画像をハイパーリンクを使って同時に眺めることができるWEBブラウザが出ていた。当時の学生には、インターネットとWEB、モザイクはほぼ同じようなものとして認識されていた。インターネットに接続するためには大学に行ってUNIXワークステーションにログインするか、自宅からダイアルアップ回線(つまり電話回線)を使って繋ぐ必要があった。電話は常時接続ではないから時間ごとに課金されるシステムである。したがって、必要がなければ、なるべく大学にいってインターネットを使った。幸いなことにSFCは届けを出せば夜間も大学に滞在して良いという24時間キャンパスだった。それで、夜中に何をしていたかといえば、メールをしたり、ネットサーフィンをしたりと、今と変わらないわけだが、何が面白かったかといえば、ネット世界の開拓感である。インターネットはまだ黎明期である。日本には数えるほどしかWEBサーバがなく、そのほとんどは大学や研究所の物好きな教授や研究者が立てたものだった。手作り感のあるNTTのホームページには、日本地図が貼ってあって、そこに最近オープンしたサーバがプロットされていた。日本地図に書き込むことができるほどの数しかサーバが無かったのだ。私たちはキャンパスに用意された高額なワークステーションを使い放題に使い、10年後、20年後の社会がどうなるか、肌で感じることができた。

また、SFCはアカデミズムの専門の枠を超える「学際」を掲げていた。そのおかげで、普通なら大学の規模で集まる教員が、学部規模で集まっていた。具体的にいうと、安全保障の森本敏、文芸批評の江藤淳、ボランティア論の金子郁容、インターネットの村井純、マクロ経済学の竹中平蔵、現代史の小熊英二、現代詩の岡田隆彦、仏文(のちに現代政治にうつる)の三浦信孝、現代文芸の福田和也などの授業を受けることができた。何にでも幅広く興味のあった私にとって、このSFCの環境は最高だった。現代の教養学部といえるかも知れない。そんななか、ゼミ(SFCでは研究室という)を選択するときに、ずいぶん悩んだのだが、メディアアーティストの藤幡正樹さんの研究室に所属することにした。なぜかというと、藤幡さんの話がめちゃくちゃ面白かったからである。一線で活躍するメディアアーティストとしての手わざ、経験、技術に関する他では聞けないような詳しい話と、深い教養に裏打ちされた思想の話が渾然一体となって繰り広げられる授業だった。そこでビル・ヴィオラも知ったし、電子工作も初めてやった。ちなみに先生は遅刻魔で授業にはいつも遅刻してきた。その一方、ゼミ(研究会)ではめちゃくちゃ厳しい先生だった。創作活動をしたことのない普通の大学生だった私たちは随分と凹まされた。具体的にいうと、次週までに作品のエスキース(素案)を描いてこい、と言われるのだが、エスキースなんて聞いたこともないし、何を作ったら作品になるのか分からない。そして、作業をするための場所は廊下しかない。なんとなくそれらしいものを作って発表すると、「ふーん、で?」「君は何が面白いの?」と問い詰められる。しかし、そうしたことを続けていった結果、先輩たちを見ていると、なにかしらその人オリジナルの活動にたどりついているように見えた。その「仕上がり方」を私はすごいと感じていた。藤幡さんは批評家も育てたいのだと言っていた。柄谷行人や浅田彰(東浩紀も頭角を現していた)に憧れていた私は、いつかは雑誌のインターコミュニケーションに寄稿したいと思い、メディアアートの世界に入っていった。

その後、IAMAS(イアマス)という岐阜県立のメディアアート専門の学校に進んだ。この学校は名物知事だった梶原拓の肝いりで作られた学校である。近代の工場の次に来るのは情報の場、「情場」なのだ、という県のポリシーのもと、中央に負けない設備と人材が集められた。IAMASは、専門学校と大学院(では厳密にいうとないが)合わせて100名足らずの小さな学校である。当時、メディアアートを専門的に学べる場は、多摩美の情報デザインと、大阪のIMI、そしてこのIAMASくらいしかなかった。なので、日本中からメディアアートをやりたいという学生が集まってきた。たとえば、一年上にはダムタイプの高嶺格、同学年にはスペキュラティブアートの長谷川愛、セミトランスペアレント・デザインの田中良二、一年下にはライゾマティクスの石橋素やメディアアーティストのクワクボリョウタがいた。そこで私はプログラミングなどを学んで、インスタレーション作品などを作っていたのだが、いま紹介したいのはそれではなく、クリティカル・シンキングのことである。

クリティカル・シンキングとは、私が自身で立ち上げたプロジェクトで、夜中の教室を借りて、学生である私が先生となってレクチャーを行い、メディアと思想、批評について考えるという場だった。IAMASは前述のように小さな共同体で、互いの作品を手伝ったりするのは当たり前だった。夜中の教室にもみんな集まってくれて、私の拙い授業を聞いてくれた。私はIAMASには批評が足りないと思っていた。批評というか、思想というか、もっといえば、考えることと言っても良いかも知れない。流行りのメディアインスタレーションを真似ているだけでは全然だめなんじゃないか、何のために作品をつくっているのか、作家自身が客観的に語れるようになることが大事なのではないかと考えていた。その不満感をぶつけるべく、私は熱心に授業の準備をした。

IAMASを卒業する頃に前述の藤幡さんにお声がけ頂き、東京藝術大学の先端芸術表現科の非常勤助手として働くことになった。先端芸術表現科は、戦後はじめて芸大に新しくつくられた学科である。オープンは1999年。「先端芸術」というくらいで、当初はこれまでの美術学部では扱ってこなかった新しいジャンルやメディアを教える学科をつくろうという話だったようだ。具体的には、空間インスタレーションとメディア・アートである。また、当初からキュレーターを教員に迎えたいという意図があったようだ。そうして声をかけられたのが、一線で活躍していた教員たちである。具体的にいうと、大規模な屋外インスタレーションで国際的に知られる川俣正、メディアアートの藤幡正樹、アートプロデューサーの木幡和枝、彼らが新たに教授として迎えられた。既存の学科からは、壁画から渡辺好明、デザイン科から日比野克彦、写真センターから佐藤時啓が助教授として参画し、これまでの芸大との橋渡しをすることになった。私が先端に入ったのは2000年のことである。ちょうど、木幡和枝が教員に加わるという年で、彼女の担当の助手になった。私は木幡を同時通訳者として知っていたが、アートプロデューサーとしての側面は知らなかった。ましてやアートキャンプ白州のオーガナイザーであり、ダンサーの田中泯を世界に紹介した張本人であると知るのはずいぶん後の話になる。

先端芸術表現科は、もともとこれまでの油絵、日本画、工芸、彫刻、デザイン、建築というメディア別に編成された学科と同じように、「新しいメディア(メディウム)」を使う学科として構想された。しかし、着任した教員たちの発想は少し違った。川俣正はそれを「考える美術」と名付けた。彼が提唱したのは、簡単にいえば、作る「前」と「後」を考えるということである。作るためのスキルを教えることもそれはそれで必要なのだが、それだけではアート作品は生まれない。作家としてのスタンス(ポジショニング)を決め、作品のコンセプトを練り、試作する。それを繰り返して作品ができたあとには、然るべき場所に設置する、そのための場からデザインする。そして、観客の目に触れ、最終的にはアーカイブを残す。この一連の時間軸の中で考えることが大事なのだ。川俣の考え方は徹底していた。なんなら、作ることは教えなくてもいい、時には作ることを禁欲してでも、きちんと考えるということを教えようとしていた。彼はそれを「プロジェクト」と呼んだ。藤幡正樹は作家が自己を客体化し、作品を通じて表現するだけなく、言葉にすること、社会に放つことが大切だと考えていた。そのように考えるに至ったのは海外での経験が影響していた。日本では観客から「どうやってこれを作ったのですか?」と造形技術に関する質問を受けることが多いが、海外では「なぜ君はこれをつくったんだい?」と制作の動機を聞かれることが多かったと藤幡はよく口にしていた。技術を語るのは、ある程度手を動かしている人間なら当然できるが、作家としてのスタンスや制作の動機を他者にわかりやすく語ることはどうしても経験が必要である。開学2年目には、そうした背景をもとに実技カリキュラムが作られた。半期をかけて、作品の着想からモデリング、発表、アーカイブ化までの「プロジェクト」を4、5名のグループワークで行うというものだ。グループでということろがミソで、個人としての制作に慣れている美大生にはなかなかハードな課題だった。実際、グループが空中分解してしまうような例もあった。

取手キャンパスのある取手市では、渡辺好明が先導して、取手アートプロジェクトと呼ばれる、アートをキャンパスや美術館の中から開放し、街に広げるという試みをしていた。学生はそこにも参加することになった。木幡和枝は取手アートプロジェクトのなかでゴードンマッタ=クラーク(GMC)プロジェクトを立ち上げた。GMCは70年代に活躍したアーティストで、郊外の家を真っ二つに切った作品や、建物の外壁を丸くくり抜いたインスタレーションなどで知られ、35歳にして世を去った知る人ぞ知るアーティストであった。木幡はGMCが現代の取手にいたら何をするだろうか、という問いを学生に投げかけた。そして、GMCが作ったアーティスト運営による食堂=FOODを取手市内に再現し、ジャンルや学科を超えてあらゆるものがスープのように混ざり合う渾然一体とした場に仕立て上げた。それをサポートするのが私の助手としての最初の仕事となった。

2001年は9.11のアメリカ同時多発テロがあった年だが、私を含む一部の学生たちはこれをニューヨークの現地で体験することになった。というのも、ニューヨークのアートスペース、P.S.1での展覧会「BUZZ CLUB」の会場造作をつくるため、学生がインターンとして参加していたからである。言葉も満足に通じないニューヨークで、美術館に(違法だが)学生が寝泊まりして、制作が進められた。P.S.1の創立者のアラナ・ハイスは、1971年に廃校となった小学校を改造してアートスペースとした。美術館のように収蔵品を集めるのではなく、その代わりに世界からレジデンスを募って現地のスタジオで制作させるというスタイルである。P.S.1は、オルタナティブスペースの先駆けで、いわば現代アートの聖地である。その現地で学生が学ぶということが実現したのはアラナ・ハイスの友人だった木幡和枝の力によるものだった。

私は先端芸術表現科は3つのキーワードで語ることができると考えている。すなわち、1.プロジェクト 2.ネットワーク 3.コミュニティである。プロジェクトとは前述のように、アートの制作プロセスを単に手を動かして作品を制作する部分から拡大し、着想からアーカイブまでの全体として考えるということである。同時にpro(前に)ject(投げる)という語義の通り、社会に向かって作品を問うていくという姿勢を示している。ネットワークとは、大学を閉じた領域として考えるのではなく、ネットワークの中の一つのノードとして捉え、地域や社会の様々な組織や人々と協働していくという考え方を示している。コミュニティとは、学科全体を、教員と学生、助手や講師による一つの共同体として捉えるものである。それは簡単にいえば、学生を一人前の作家として接するということを意味する。

近代の学校制度は工場をモデルにしている。材料としての学生がおり、生産過程としてのカリキュラムと学校設備があり、製品(学生)の性能を確かめるためにテストがあり、合格すると出荷(卒業)される。これはインプットとアウトプットが均質であることを前提とするモデルだ。それに対して、実践共同体としての学校を考えることができる。それは先生も学生も、もとから一人ひとりが異なる知識、スキル、経験と関心を持ち、それを持ち寄るところから、新しい創造を行う場として学校を捉えるという考え方である。

私は、学校に可能なことは、1.出会う、2.作る、3.変わるのサイクルを回すことだと思っている。より詳しくみると、1.出会うでは、お互いを知るきっかけの提供、2の作るでは、一緒に作ること、作ることを助けること、3.変わるでは、変化の見守りと促しを行うことが先生の役割ということになる。この過程を、私は簡単な言葉で「水やり」と呼んでいる。自身を「水やり係」と自認しているのもそのためである。

第2章 ワークショップ

■ワークショップ
ミミグリデザインの安斎勇樹氏によれば、ワークショップとは「普段とは異なるものの見方から発想するコラボレーションによる学びと創造の方法」である。ワークショップはもともと工房という意味の言葉で、「工場思考」に対するアンチテーゼとして考案された。工場思考とは、トップダウン、メンバーは歯車、設計図に従って作る、効率重視、ミスは大罪、退屈な作業に耐えるというような特徴を持つ。それに対して、ワークショップでは、ボトムアップ、メンバーが作り手、作るべきものを探る、実験重視、失敗から学ぶ、作る過程を楽しむ、という特徴を持つ。ワークショップのエッセンスは、非日常性、共同性、民主性、実験性であるという。

ワークショップの歴史を紐解くと、1900年代にハーバード大学で行われていた演技指導にたどり着く。それが1930年代のアメリカの教師教育、1940年代の小集団によるカウンセリング手法、1950年代のブラジルの識字教育、1960年代の住民参加によるまちづくりと小劇場運動などを経て、現在のようにアートや教育、企業の人材育成や組織開発、商品開発などに利用されるようになった。

芸術の視点で興味深いのは、ボトムアップのまちづくりのためにワークショップ的手法を活用した建築家のローレンス・ハルプリンが、妻のアンナ・ハルプリンとともに活動していたという点である。アンナ・ハルプリンは前衛のダンサーであり、権威的な演出家という存在を排したダンサー自身がつくる新しい演劇を目指していた。二人は「RSVPサイクル」を提唱した。

R(Resources)は、その集団が活動の基礎とするもので与えられた環境のすべての(主観的・客観的)要素を含んでいる。S(Scores)は、楽譜に発想を得ているものの音楽活動に限らず集団が活動する際の乗り物のようなもので、スコアの指示はそれを実行する者の自由裁量が与えられている開放的なものからそうした自由裁量の余地がない制限的なものまである。P(Performance)は、グループによってスコアを実行する段階である。V(Valuacton)は、パフォーマンスの要約や分析、討論とそのまとめを行ない、次の活動へとつないでいく段階である。(木村覚)
https://artscape.jp/.../RSVP%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF…

私はワークショップの作り方というワークショップを実施したことが何度もある。そこでいつも使っている素材に日比野克彦の『100の指令』がある。これは1ページに1つの指令が大きく書かれているという、オノ・ヨーコの『グレープフルーツジュース』にも似た、楽しい本である。たとえば、「自分の描いた絵を街に貼ろう」「目を閉じてまぶたの裏を見てみよう」「自分の大切なものを絶対見つからないところに隠そう」「いつもと違う道で家に帰ろう」「椅子を椅子じゃないものとして使ってみよう」といった指令が並んでいる。ワークショップの作り方ワークショップでは、これらをメンバーに見せたあとに、自分自身で新しい指令を考えてもらう。すると、メンバーの個性が現れて面白いものである。日常のなかで、「いつでもやれるけれど、やったことがない面白そうなこと」を想像してみるというのは、現代アートの発想法、とくに作品の着想部分のプロセスに近い。

このようなワークショップの手法を、幼児教育に活かしたのが私にとってはYCAM(山口情報芸術センター)の会田だいやくんに誘われて参加した伊勢丹のcocoikuというプロジェクトだった。伊勢丹新宿店は、旗艦店として他のどこでもやっていない画期的な幼児教育を探していた。そこで目をつけたのがYCAMのワークショップだった。さまざまなワークショップを幼児向けにアレンジして考えているうちに、私たちは次のような理念を掲げることになった。

創造性とは、
変化する状況のなか、
前例のないことに対して深い洞察を持ち、
理性を働かせ、勇気を持って行動できること。 

会田だいやは、これを3.11の東日本大震災のあとに考えたのだという。未来を生きる子供たちは、未知の事態に遭遇したときに怖気付いたり、身をすくめてしまうのではなく、理性と行動力で局面を打開していく力を持たなくてはいけない。そのため、ワークショップでは、以下の点を重視した。

●原理原則
・子どもたちの夢中を引き出せているか?
・子どもたちの経験の幅を広げられているか?
・こどもたちが自分で考え、試せる「余白」があるか? 
・安心して失敗できる環境を用意できているか? 
・学校にも家庭にもない出会い(ファシリテーター、お友達、環境、ツールとの)を提供できているか? 

cocoikuで考えたことは、大学生に教えるときでも、社会人に教えるときでも役立っている。とくに「安心して失敗できる環境」はたいへん大事だと思っている。世の中はますますシビアになり、失敗を許容することが難しくなってきている。しかし、失敗をする経験をもたないということは、より重大な失敗に繋がりかねない。料理でも工作でも、上達のためのコツは、早いうちに失敗を積み重ねることなのである。ただ、ここで大事なのは、失敗をさせようとして失敗させるのではなく、その人が何かにトライする姿を見守り、自然に失敗できるような環境を整えるということである。

■コロガル公園シリーズ
会田だいやがディレクションしたコロガル公園シリーズには彼の考え方が色濃く反映されている。コロガル公園は、羽根木のプレーパークをメディアテクノロジーによってアップデートしたような新しいタイプの公園である。遊び方はあらかじめ決められておらず、子どもたちは自分の責任とアイデアで遊ぶ。まわりには、プレイリーダーと呼ばれる大人がいて、子供たちと一緒に遊んで、子どもが新しい遊びを生み出す手助けをする。クロード・パランの『斜めに伸びる建築』を参考にして作られた公園は、斜面や凸凹、曲面が多用され、速度変化、重力、遠隔操作という遊びの3要素が内蔵されている。公園に新しい仕組みや機能を追加したいときには「こどもあそびばミーティング」でプレゼンし、みんなに受け入れられると、ラボの大人が手助けしてそのアイデアを公園に実装する。そうして、子どもたちは自分たちの環境を自分たちの手で改変したという自信を持つことになる。

日本財団が行った9ヶ国の国際調査において日本の18歳は「自分で国や社会を変えられると思う」割合が、他国と比べて顕著に低いことが指摘された。インドでは83.4%の若者が「変えられると思う」と答えたのに対し、日本では18.3%であった。これは、日本が成熟社会を迎えているということも関係しているが、様々な社会問題に対し、正面から立ち向かって変えていくのではなく、なかば改変不可能なものとして受け入れ、できる範囲で対処するという、よく言えば現実的、悪くいえば消極的な日本の若者像が現れている。しかし、これから先、日本や社会が迎える超高齢化、気候変動、グローバル化などを考えると、このままで良いとはとても言えない。ではどうするか。そのためのヒントがコロガル公園には含まれている気がする。実際、コロガル公園はもともと期間限定のプロジェクトとしてYCAMで始まったものなのだが、会期終了が迫ると、子どもたちが自主的に署名を集めはじめ、最後には市長に嘆願し、次年度の実施を実現するまでに至ったのである。自分たちで運営することを通じて、自分たちの場所を愛し、自分たちの手で世界を良い方向に変えていく自信と意欲を子どもたちは手に入れたのである。

■ブラック・マウンテン・カレッジ

ブラック・マウンテン・カレッジは、1933年、アメリカのノースカロライナにつくられた芸術の学校である。以下、沢山遼による紹介文である。

設立者のジョン・アンドリュー・ライスらはジョン・デューイの教育理論を基本理念とし、進歩的な芸術教育を行なう非営利の機関として同校を開いた。開放的な雰囲気のもと、J・ケージ、M・カニングハム、B・フラーなど、多彩な講師陣が同校を訪れたが、フラーのジオデシック・ドームの最初の製作(1948)、ケージの最初のイヴェントである《シアター・ピース#1》(1952)、カニングハム舞踊団の結成(1953)などが同校を舞台に行なわれたことからも分かるように、教育機関でありながら、双方向的なコミュニケーションと創造の場であったことが特徴である。卒業生であるR・ラウシェンバーグは卒業後も同校を訪れ、ケージやカニングハムらと共に活動した。美術ではバウハウスの講師をしていたJ・アルバースが指導的立場を務め、芸術の知覚的・心理的作用と物理的側面の双方を重視したプラグマティックな教育を展開した。1200人近い卒業生を輩出し、資金難により57年に閉校したが、異なる芸術理念、思想、技術を共有する横断的な文化的実践の拠点として、その後の文化・芸術活動に与えた影響は計り知れない。

ブラック・マウンテン・カレッジはジョン・デューイの実験学校の構想とバウハウス流の教育カリキュラムが合体してできた学校である。教師も学生も同じ場所で共同生活し、運営は学生代表を交えた「Board of Follows」という評議会で決定された。衣食住をともにするなか、コミュニティの密度は高くなり、そのために内紛も無かったわけではないようだが、反面、普通ではありえないメディア横断の実験が成立した。そもそも、デューイの教育哲学の最大の特徴は「成長可能性」であった。これは「実験性」とも言い換えられる。これは通常考えられるような「あらかじめ定められた目標」に向かっての成長ではなく、方向性が「事後的に」決まっていく成長である。なので、学位、ディグリーという考え方はこの学校にはもともとない。何を達成したらいいかが事前には分からないからだ。ブラック・マウンテン・カレッジには、単なる作品の生産装置としての学校ではなく、学びの場を作ることそのものがアートであるという考えが見られる。

第3章 偶然性と運命、事故(アクシデント、ハプニング)

■旅の宿モデル
学校は旅の宿である、とよく言っている。様々な場所から様々な経路でやってきた旅人(学生、教員)が、テンポラリーに集まる場所(宿)が学校なのではないか、という意味である。そこに集まる人々は、個性豊かで、おのおの異なる知識、スキル、経験を持っている。そして、その経験をもとに、夜な夜な語り、時には共同作業をするのである。そして、旅の宿にはノートがおいてある。そこには、これまでの旅で有益だった情報が記されている。それがカリキュラムである。

あるいは、人生のインターチェンジとも言えるかも知れない。いろいろな方向から入ってきたものが、卒業すれば、また違う方向に散り散りになっていく。実際、私の経験に照らしてみても、IAMASや先端は、インターチェンジのようなものであった。そこで新しい人々に出会い、話し、共同作業をすることで、自分自身が変わった。

このような考え方は教員と学生のヒエラルキーを崩すことにもつながる。教員は単に長くその場に留まっている古参の長期滞在者であって、学生はそれに比べると新参の短期滞在ではあるが、旅の宿にとっては同じお客さんである。

大学にはキャンパスがあって、設備があって、カリキュラムがあって、というふうに固定化したイメージがあるけれども、より動的なイメージで捉えた方が良いのではないか。実際、そこに集まる人々によって、毎回出てくるアウトプットは異なるのである。これは偶然性を内包したシステムということができる。

■この命令に従うな
「この命令に従うな」という文はダブルバインドと言われる。もし「創造的である」ということが、完全に独自なことをやる、ということと同義であれば、当然、先生の言う通りに行うのは創造的ではない。だから命令には従うことができない。しかし、この文章では、「命令に従わない」ことが、命令を遵守することになってしまうのである。

世界のなかにおいて、自然と他者は偶然性をもたらす原因である。人間は道具を用い、文明を築いて、自然環境の偶然性を制御し、飼いならしてきた。一方で、人間は単調さを嫌い、つねに新しいものを求めてきた。ギャンブルが典型的だが、遊びの中には「アレア」と呼ばれる偶然性を取り入れた遊びが昔からある。AI絵画の思いがけない出力に驚き、夢中になるのは、人間が偶然性を愛しているからである。

かつて作曲家、指揮者のピエール・ブーレーズは、ジョン・ケージの偶然性の音楽に反発して「管理された偶然性」を唱えた。完全に運にまかせてしまうのでは、作曲家のやっていることは猫にピアノを弾かせているのと同じになってしまうだろうというのだ。ブーレーズによれば、作曲家とは、都市計画者のようなもので、その都市の中でどのように個々の人々が出会い、何が起こるかまでは制御できないものの、しかし、設計そのものを放棄するのではない、と。

偶然性の導入は行き過ぎれば事故につながる。しかし、出会うはずのないものが出会うという意味では、人と人の出会いは本質的には事故のようなものだ、と言うこともできる。浅田彰が柄谷行人の他者論を紹介するときに、しばしば、「絶対的な他者がいるのではなく、相対的な他者との関係性が絶対的なのだ」と言っていた。抽象的な「他者」がいるのではなく、個々の具体的な他者との関係性が偶然性を押し広げるのだ。

第4章 何のための批評か

■ハードクリティック

美術大学では講評会という制度がある。全学生を集めて、学生が作った作品を前に、教員がコメントをするという機会であり、美大の授業のなかでのハイライトと言えるかも知れない。私が東京藝術大学で助手をしていたころの講評会のコメントは非常に厳しいものだった。とくに先端芸術表現科の講評会は、2つの意味で特異だったかも知れない。ひとつは教員歴が短い作家がいたこと。彼らは教員としての指導的コメントというよりは、現役の作家として思ったことをそのまま口にする傾向があったような気がする。それはある意味では垣根のない対等な関係といえるかも知れないが、逆にいえば、ストレートなコメントを直接学生にぶつけることになり、それによって学生が傷つく場合もあったかも知れない。2つ目には教員の専門、ジャンルが交錯していたこと。先端にはさまざまな分野からの教員が集まっていたので、講評会では教員同士でも議論が生じることがあった。もちろん、学生の作品と、教員の専門が近い場合には、その教員のコメントは重く受け止められたけれども、かといって、専門外の教員のコメントが軽く扱われていたわけではない。これは他の学科にはあまり見られない光景だったかも知れない。先端芸術表現科は、英語名をインターメディアコースと言ったが、文字通り、メディアを横断した会話がそこに出現していたように思う。

さて、ここではハードクリティック、つまり厳しい講評について考えてみたい。少し前に、NHKの番組で元バレーボール日本代表の益子直美さんが、一般社団法人「監督が怒ってはいけない大会」を立ち上げ、文字通り監督が怒るとマスクをさせられてしばらく選手に声をかけられなくなるというルールの大会を実施していることを知った。時代の変化だなと思った。かつてバレーボールといえば、68年の東京オリンピックの「東洋の魔女」を育てた「鬼の大松」に代表されるように、もっとも指導の厳しいスポーツのひとつというイメージがあった。それが、いまや「怒らない指導」をするようになったのである。怒ることで選手を萎縮させてしまうより、選手のいい面を褒めて、自由にプレーさせることで、ポテンシャルを活かそうというのである。選手の側の変化もあるだろう。打たれ弱いと言われればそれまでだが、厳しい指導は選手のメンタルを傷つけ、最悪、精神疾患を生み出してしまったり、バレーボールを続けることができなくなるかも知れない。その意味で、このような流れはある種時代の必然であるようにも思える。

一方、禅の公案のようなものを考えてみる。公案では答えのない問題が出される。たとえば、「仏とは?」と問う弟子に、師匠が「糞かきベラである」と答える。弟子は当然混乱する。なぜ崇拝すべき仏さまがこの世で最も汚い糞かきベラと同じなのかと。師匠は一見適当な答えを述べて弟子を混乱させようとしているようにも見える。あるいは、本当の答えが分からないので、ごまかしたのかも、と。しかし、好意的に考えるならば、師匠は、弟子の既存の枠、限界を突破させるために、あえてそのような答えをしたのだろう。自分の考えを変えるというのは時には痛みが伴うものである。それまで信じていたことを捨てるのだから。問題は、いま弟子が既存の考えに囚われており、それを突破しないとより理想的な状態に近づけないと、師匠がなぜ判断できるのか、その根拠は何かということである。一つ間違えば、弟子を混乱させるだけに終わり、師弟の信頼関係も崩れてしまう。それでもなお、リスクのある言葉を発することのできる「先生の義務と権利」とは何なのだろうか。

もちろんこれは極論かも知れない。実際には打たれ弱そうな子にはやさしい声かけを行い、少し骨のありそうな生意気な子には厳しい言葉で指導する、というような使い分けもあり得る。しかし、佐々木くんの発言を見ていると、彼は「原理的に」ハードクリティックを廃しているように思える。

間違いを指摘するときには人格を否定するのではなく、その人の行為の過ちを指摘すべきであるという考え方がある。たしかに、傷つけられた、と思うのは、人格を否定されたと思うからである。また、その学生が主体的に自分を向上させたいと思っているかどうかも大事である。水を欲しがっていない人に水をやっても感謝はされない。喉が乾いているからこそ、水をやることに意味があるのである。これを教育学の分野では「レディネス」と呼ぶ。すでに何かを受け取れるという準備が整っているかどうか、それを見抜く力が教師には必要とされる。

少し寄り道になるが、ここで、芸術表現が人を傷つける可能性について考えてみたい。2022年6月にアーティストで先端で長く非常勤講師を務められた山川冬樹さんがこんなツイートをしていた。長くなるが、一連のツイートを紹介したい。

美大で指導していると作品で「人を傷つけたくない」とか、「不快感を感じさせたくない」と、自由な表現を自己検閲する学生が年々増えていて考えさせられてしまいます。
気持ちはわからないでもないですが、本来的に作品というのは様々な形で人を傷つけたり、不快感を煽り得るものです。それゆえに存在意義があるのではないでしょうか。
学生にとって分かりやすい例で説明するならば、例えばアニメ『進撃の巨人』。あれほど残酷なストーリーで人を傷つけたり、グロテスクな表現で不快感を煽りながら、多くの人に受け入れられ、評価され、熱烈に求められるのはなぜでしょうか。
留意すべきは、顔の見えない抽象的な誰かの心を傷つけてしまうことへのリスクではありません。そうではなく、特定の個人の尊厳や名誉を毀損するリスク、或いは社会の中に現実に存在する差別や憎悪を助長してしまうリスクにこそ留意すべきです。
「人を傷つけたくない」とか「不快感を感じさせたくない」といういう心理は、他者を配慮しているようでいて、実のところそれは空気のような同調圧力の中で「批判されたくない」、さらに言えば自分が「傷つきたくない」という心理と隣り合わせにあるのかも知れません。
表現者たるもの、責任を持って批判を受け止める覚悟やメンタルの強さは必須です。そしてその覚悟や強さを持つために勉強し、知識や見識を養う努力を怠らないでほしいと切に思います。
一部のおっさんたちに言っておきたい。僕らが学生だった2〜30年前に比べて、今の学生たちは遥かに深刻な傷を負わされるリスクが高い、過酷な情報環境を生きているんだよ。むしろ表現すべきものを持っている学生ほどそこで苦しんでいる。うちらが今の環境を学生として生きてたら潰れてるかもよ。

もちろん、アーティストと観客という関係と、権力を持つ先生と学生との関係は異なる。先生は成績を付けることができ、学生が進級、卒業できるかどうかを決定する権力を持っている。だから、先生が学生を傷つけるということはハラスメントである。嫌だったら言うことを聞かなければ良い、では済まないからである。

一方、芸術家が表現をする場合、それを見る観客は、多くの場合、美術館や地方芸術祭などに能動的に足を運び、お金を払って鑑賞している。つまり、見たくて見に行っているわけだ。もちろん、インターネット環境の普及によって、「見たくないのに見せられる」という機会が増えていることは否定できない。あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展」をめぐる炎上も記憶に新しい。その点、美術館側は、エロや刺激の強い作品は特別の部屋を設けたり、写真撮影を禁止したり、事前の注意を呼びかけたりといろいろな手を打っている。しかし、ここで山川さんが述べていることは、原理的な話である。たとえ、事前にどんなに周到に用意をしたとしても、表現は他者を傷つける可能性を持つ。同様に、いかに丁寧な指導を心がけたとしても、他者としての学生と接する以上、学生を傷つけてしまう可能性は原理的には避けられない。もちろん、避けられないから仕方がないと言っているのではない。信頼関係の醸成は必須である。しかし、芸術を学ぶ学生には、芸術を学ぶことで自分が変化することがあること、それは楽しく愉快なことばかりでなく、激しい葛藤を生む可能性もあることを理解してもらいたいと思う。それは学校という制度が成立するために必要な契約なのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?