感情そのままに残した、おばあちゃんと過ごした最後の日々のこと
2021年で忘れられない出来事がある。
それは6月におばあちゃんが永遠の旅に出たこと。
これは最期の日を迎え、すべてが終わった後に、今の気持ちを残しておこう・・!と帰り道に急いで書き留めたものです。
そのまま、載せます。
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ついに終わった・・長い長い1週間だった。
北海道の撮影が終わった日、母から福岡に来た方が良いと連絡が入る。
仕事の切りもよく、ちょうど空港にいたタイミングでもあったから、わたしの答えは迷わずYESだった。
祖母が心配なのはもちろんだけど、母が心配だった。
しばらくの間ほぼ毎週東京から福岡まで通い、今回に至ってはすでに1週間近く、一人で少しずつ弱っていく祖母に寄り添っていた。
自分だったらどんな気持ちだろうか。
親の命の灯火が今目の前で少しずつ少しずつ消えそうになっている。
想像しただけで辛くて、ただそばにいてあげたいと思った。
自分自身もすでにくたくただったけど、そんなことも言っていられない。
月曜日の午前中に信じられない集中力で1週間分の仕事のスケジュール調整をして、事情を各所に説明した。
温かい言葉をかけてくれる方ばかりで、本当に心配事なく家族との時間に振り切ることができた。感謝しかない・・。
改めて今この働き方を選択した自分を褒めたい。
大事な人と過ごす時間以上に重要なことなんて何もないんだと心から思った。
祖母の容態が先月よりうんと悪くなっているのは火を見るより明らかだった。ひとまわりも二回りも小さくなったように思えるからだ。
もう栄養も取れない状況になっても、確かに、懸命に、生きていた。
生きている祖母と会えた最後の日、6/22。
この日は朝からずっと目を開いてキョロキョロと辺りを見回し、わたしの姿もしっかり捉えてくれていたように思う。
いつもは日中もウトウトする時間が長くなっていたはずの祖母が、ずっと起きていて何かこちらに向かって言葉を発していたのは、今思うと最後に振り絞った強い「生きる力」だったんじゃないかな。
「なんだ、おばあちゃんまだまだ元気だね」
とホッと胸を撫で下ろして、この日はいつもより早めに切り上げて母と食事をしに行ったのだった。
ところが翌日の未明1:30ごろ。
施設から今すぐきてほしいと電話が。
二人で飛び起きて慌ててタクシーに乗り込む。お願い間に合って・・と心の中で願いながら。
しかし残念ながらたどり着いたときにはすでに呼吸が止まっていた。まだ温かい体に二人で何度も呼びかけた。
「おばあちゃん、眠ったらいかん」
「着いたよ、おばあちゃん、聞こえる?」
でももう反応が返ってくることはなかった。
それから1時間くらいして病院の先生が来て、正式に診断が下された。
深夜2:50。おばあちゃんとの生涯のお別れだった。
そこからは悲しむ間も無くおばあちゃんは葬儀場に運ばれ、早速お通夜とお葬式の手筈を整えて急いで部屋に帰って仮眠して着替えて・・
夕方にはもうお通夜が終わっていた。
こんなにもあっという間にことが進んでいくなんて知らなかった。
そして翌日には最後の対面をしてお骨をみんなで骨壺へと納め、夢と現実の間にいたようなふわふわとした日々を終えた。
7年前に倒れてしまった時から、おばあちゃんはいつ亡くなってもおかしくない状況だった。
だから私たちはある程度みんな覚悟をしてこの日を迎えていた。
それでもやっぱり悲しくて辛くて、でもこんな機会がなければ会うことがなかった従兄弟たちとゆっくり話す時間もできて。
最後におばあちゃんがくれた時間だったなと思うと感謝でいっぱいだ。
わたしはものすごく可愛がられた孫だった。
見た目が好みらしく、着せ替え人形のようにいろんな洋服を買ってもらったっけ。おばあちゃんと何度も天神に買い物に行った、いつもワクワクしていたなあ。
おばあちゃんのおうちにもたくさん思い出がある、毎年夏休みに過ごしていた場所。
こんな風に何十年経っても思い出せる時間をくれて、ありがとう。
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このときは、母と一週間近く福岡でホテル暮らしをしながらおばあちゃんに会いに行っていました。
非日常な状況で、精神的にも張り詰めていたんだと思う。
帰りに一人で飛行機を待っている時に急に涙がドバドバと溢れて、止まらなくなって、焦ったなあ。。。
その涙が少しおさまった頃に、今しか残せない感情を書いておこう、と思い立って残していたんです。
人は、いつか死ぬ。
当たり前のことだと思っていたけれど、改めて直面する機会が訪れてかなり自分に大きな衝撃がありました。
「終わりがあること」を目の当たりにして、改めて今を大事にしたいし、生きているうちに感謝や愛は伝えるべきだと心から思う。
定期的に、心に刻もう。
だから何度も立ち帰れるように、ここにも残しておきます。