#72-12 ミュンヘンのユダヤ人
ミュンヘンオリンピックは、1972年8月26日から9月11日まで
札幌オリンピックで書いたように当時は冬と夏のオリンピックは同じ年。
オリンピックマニアの私としては最初にハッキリ記憶している大会です。
ちなみに「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー」のままだけど、このコピーは1958年の日本麦酒(現サッポロ)のものでした(緯度がだいたい同じ都市ということ)。
日本勢としては水泳の金。
田口信教(100m平泳ぎ)、青木まゆみ(100mバタフライ)
女子の金は前畑 秀子以来じゃなかったかな(次は岩崎恭子)。ちょっと気になったのはその後、まったく青木の名前が出ずに忘れられてしまったこと。私がその名を出しても「そんな金メダリストいたっけ?」という反応ばかりでした。彼女は高卒で出場しましたが、その後、天理大から西宮市の体育科教諭となって2019年に退職しているそう。西口まゆみ
青木は2ビート泳法だった。たけしのツービートとの関連はわかりませんでした。
女子のババショフはたくさんのメダルを獲ったのでよく覚えています。名前が面白かったし、連呼されていましたし。カリフォルニア州で郵便局に勤務しているそうです。
もっと獲ったのはマーク・スピッツ。当時史上最多となる1大会7個の金メダル(マイケル・フェルプスが北京で8個の金メダル)しかも、6つの金メダルを取ると宣言した。生涯の金メダル数9個。
その後のマット・ビオンディ、マイケル・フェルプス、イアン・ソープの先輩って感じ。
トレードマークは口ひげ
その後、セールス業、ショービジネスの世界に入ったが、成功しなかった。
39歳の1989年に1992年のバルセロナ・オリンピック出場をめざして本格的な練習を再開し、翌年現役復帰を果たしたすタイムを満たすことができず断念。(このときはマット・ビオンディと2人でマッチレースを繰り広げました)
スピッツはユダヤ人だった。
これは当時私の小学校のM君たちと話題にしていました。
9月5日にミュンヘンでパレスチナ武装組織「黒い九月」により行われたテロ事件が起こって大騒ぎなりました。
パレスチナの過激派組織「黒い九月」のメンバー8名が、オリンピック村のイスラエル選手団宿舎に武装して侵入、抵抗した選手ら2人を殺害、9人を人質に取る。彼らはイスラエルに収監されているパレスチナ人テロリストの解放を要求した。
ミュンヘン空港でのテロリストとの銃撃戦。イスラエル選手団9名が殺害され、人質11人全員が死亡という最悪の結果
ミュンヘンオリンピック事件と、その後のイスラエル諜報特務庁(モサッド)による黒い九月に対する報復作戦を描いたのが、スピルバーグ監督『ミュンヘン』(2005年)
私もこの映画を観てどういう事だったのかを知りました。
小学生4年生の私たちでも話題なって「スピッツもユダヤ人だから、すぐ逃げた」「水泳でメダル獲り終わってよかった」などと話していました。
フェルプスが北京で自分の個数を超えそうになっても、招待されなかった。これは人種のこともあったかもしれない。
実際、田口信孝は、金が決まってプールの外に出たところ、多数の「色のついた連中」(ギリシャ・アラブ人などで、田口によると「4000 - 5000人」)に急に担がれてお祭り騒ぎとなった。その理由は、白人の強いオリンピックで色のついた人間が優勝したので喜んでいたといい、田口は「"人種"を強烈に感じました」と回想している。『Sports Graphic Number』No.296(1992年8月5日号)、文藝春秋、p57。
今になってちょっと驚くのは、こんな話をしていたのが田舎の普通の小学4年生たちだったこと。
その後
水泳選手に黒人はいなかった。人種差別がひどかった1950~60年代、黒人は白人と同じプールや海水浴場で泳ぐことすら許されなかった。「黒人は泳ぐこと自体が珍しく、大会も白人とは別々だった」(アンドリュー・ヤング氏)。
オリンピックで水泳メダルを獲得した最初の黒人アスリートは、モントリオールオリンピックでのエニト・ブリヒト(オランダ)。女性の100mと200mの自由形で2つの銅メダル。史上2人目の黒人の競泳メダリストはアンソニー・ネスティ。ソウルオリンピックにおいて競泳男子100mバタフライでマット・ビオンディ(アメリカ)僅差で勝ったは、スリナムに史上初めてオリンピックの金メダルをもたらした。
競泳の個人種目で黒人女性が金メダルを獲得するのはリオデジャネイロでの女子100メートル自由形決勝で、シモーン・マニュエル(米国)が最初。