#72-9 田中角栄内閣に金丸信
1972年(昭和47年)7月6日田中角栄が第64代内閣総理大臣に指名され、7月7日第一次田中角栄内閣が発足。12月22日まで。
9月29日に日中国交正常化に合意
第65代になった第二次内閣は、1972年(昭和47年)12月22日から1973年(昭和48年)11月25日まで。
これらの内閣の顔ぶれを見れば、重鎮や論功での就任はもちろんその後の自民党史(日本の政治)を動かす若手の人物が登用されている。
ここでは金丸信に注目してみよう。
1914年山梨県中巨摩郡今諏訪村(現、南アルプス市)で造り酒屋の長男として生まれる
旧制身延中学校、東京農大で柔道に明け暮れる。
旧制韮崎中学校、徴兵、家業、山梨中央銀行頭取の名取忠彦に知遇を得る。公職追放、知事選を経験して58年衆議院議員に自民から出馬し当選。44歳。佐藤栄作派に入る。同期当選には、竹下登・安倍晋太郎
この頃から山梨県内では金権バラまきの「甲州選挙」がまかり通っていて、金丸はそれの権化のような選挙をしていた。
「信ちゃんアメ」を配るのが定番だった。
解散が決まりそうになると選挙区の県民に「今から帰る」というハガキを出していた。
1972年1月、金丸は幹事長となった保利茂(61年悦子夫人との再婚時の媒酌人)の後押しで塚原俊郎の後任として自民党国会対策委員長に就く。
しかし、福田支持の保利に反して田中派結成に加わった。
第一次田中内閣では、「君には建設大臣をやる」と言われたそう。まあ似たもの同士の感はあるよね。プンプン。
しかし、木村武雄になってしまった(金丸は国対委員長に留任)。それで第二次田中内閣で念願の初入閣を果たす(58歳)。
建設大臣、近畿圏整備長官、中部圏開発整備長官、首都圏整備委員会委員長
翌日の新聞1面。子どもクラブの新聞配達の担当だった僕は、1つ上のF君が「建設大臣だってさ」と 県民として誇らしげながらもうんざりした調子で言ったのを思えている。自分も同感だった。子ども心にカネのにおいを感じたのだと思う。
中央自動車道の工事着手を行った。リニアも来た。
田中内閣に戻る:
改造前の10月にオイルショック、大蔵大臣の愛知揆一が現職のまま急逝。
これは小学生としてもびっくりだった。担任が「何が起きましたか?」Eちゃんが「アイチ大蔵大臣が死んだ」と小さい声で答えたのを覚えている。田中は愛知の遺体の前にただ呆然。後任に総裁選で戦った福田を起用。
第二次第1改造は1973年(昭和48年)11月25日から1974年(昭和49年)11月11日まで
1974年7月7日の第10回参院選において自民党が敗北
第二次第2改造は、1974年(昭和49年)11月11日から同年12月9日まで29日間
田中金脈問題が政治問題化し総辞職。三木へ。福田、大平と続く。
金丸のその後
国土庁長官 三木内閣 1974年
防衛大臣 福田改造内閣1977年
統幕議長栗栖弘臣陸将の更迭。
在日米軍に「思いやり予算」を考案し実施。
自衛艦名を地元の山の白根から「しらね」を強行につけた
1984年10月 自民党幹事長
1986年 国務大臣【副総理・民間活力導入担当】(第3次中曽根内閣)
1987年7月、「経世会」(竹下派)、竹下の総理就任後は経世会会長。金竹小の時代となった。
90年9月の社会党と訪朝。金丸と金日成(金正恩の祖父)は、日本語を用いてサシで対談。紅粉勇船長ら2人が帰国した。
1992年1月党副総裁就任
1992年8月、東京佐川急便から5億円の闇献金が発覚、副総裁を辞任、議員辞職。1993年3月6日逮捕。
田中が刎頸の友小佐野、児玉がいたように東京佐川、リクルートなど「政商」のような人といつもいっしょ。
福島交通の小針暦二は、「東北の小佐野」などと呼ばれ、角福戦争でも金を出している。背が低いため戦争に行かなかった。金丸はこの小針を「小さな政商みたいな人」と称したとあるが、これには補足が必要。
(田中の政商)小佐野が社主だったバス・ホテル会社の国際興業は東京地検が家宅捜索を行っています。「社主」ってすごいよね。2003年にサーベラスに買収されています。
こんな感じで、田中を頂点とする自民党の金権体質を引きづった人だった。ミニ田中。
3月28日に脳梗塞で81歳で死去。
テレビ等のインタビューはすべて甲州弁で回答していた。
金丸は小針を「ちっくい政商みてーな奴だな」と言ったのが本当(甲州弁で小さいの意)。同じく、金日成とは「おまん、べにこ船長とうをけーしてくりょう。たのまー」(あなた、紅粉船長たちを帰らせてくれ。お願いです。)
総理大臣を断った人として名前が挙がり、「陰で総理大臣を操っていたほうがおもしろい」と言ったけど政策はほとんどわかっていなかったと思う。もしなって甲州弁で国会答弁したら標準語に直されて議事録に載るのかな?大臣時代の議事録を調べてみたいもんだ。
衆議院議長を退任した「政治の師匠」保利茂は1979年3月死去。
悦子夫人は1991年11月にゴルフ場で倒れ約2週間後に亡くなっている。
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