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1972

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1972年は日本の分岐点になった時期と考えています。「1972年だけ研究家」の僕は物心ついた10歳でしたが、本当にいろいろ覚えています。今何かのきっかけで思い出すたびにそれを書い…
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#1972年

#72-18 貴輪から輪湖

1972年9月秋場所の千秋楽。貴ノ花と輪島の水入り。 ここが大相撲の史上最大の盛り上がりピークでした。  大鵬の1人勝ちにより、低迷していた大相撲人気が息を吹き返したのは、貴ノ花が幕内に登場したとき。 この時代を貴ノ花で思い出してみましょう。 貴ノ花満は室蘭市で、10人兄弟の末っ子。兄は「土俵の鬼」と謳われた第45代元横綱・初代若乃花。 誕生した時、長兄の勝治(後の若乃花)はすでに22歳で幕内力士となっており、「お前の弟だ」と聞かされて仰天した。 杉並区立東田中学

#271 #72-16 エンタメ商業映画の時代へ

1972年夏。 それまで怪獣映画やディズニーしか観たことのなかった田舎の小学4年生の僕。 僕が最初に観たオトナの映画は「ゴッド・ファーザー」監督はもちろんフランシス・フォード・コッポラ 父が観たくて甲府春日通りに連れられて。部活の姉は置いていかれました。 始まるまで看板を見ていたら、「この人がこの人を好きで・・・」というおばちゃまが解説していたけどそういう話では全然なかったので「なんとデタラメな大人なのか」と子ども心に思いました。どうでもいい思い出。 映画では馬の頭

#270 #72-15 少女マンガが20年進んでしまった

1972年前後から少女マンガのレベルが上がりました。 萩尾望都(はぎお もと)と竹宮恵子(惠子)。20年進めたのはこの同級の二人です。 1972年2月、萩尾の 『ポーの一族』シリーズ第1作が『別冊少女コミック』3月号に掲載されました。2018年1月 - 3月に宝塚歌劇団花組で上演されています。 萩尾は高校2年生のときに手塚治虫の『新選組』に強く感銘を受け、本気で漫画家を志しました。 1969年10月上京。同世代の文通相手で音楽を学んでいた浪人生増山法恵(ますやま のり

#72-10 沖縄返還の前からすごいの来てた

1972年(昭和47年)5月15日に、沖縄がアメリカから返還された(沖縄本土復帰) 直前史 返還前は本土に行くためにパスポートが必要だった。沖縄の高校が念願の甲子園出場を果たしたのは1958年(昭和33年)首里高校。選手達はパスポートを持参します。甲子園の土は検疫に引っかかって捨てられました。1968年(昭和43年)夏の甲子園で興南高校がベスト4入り。 兄の朝申が「琉球の声放送(琉球放送(RBC)の前身)」を1949年に設立、弟の朝清は初代アナウンサーに就任。アメリカ留

#72-9 田中角栄内閣に金丸信

1972年(昭和47年)7月6日田中角栄が第64代内閣総理大臣に指名され、7月7日第一次田中角栄内閣が発足。12月22日まで。 9月29日に日中国交正常化に合意 第65代になった第二次内閣は、1972年(昭和47年)12月22日から1973年(昭和48年)11月25日まで。 これらの内閣の顔ぶれを見れば、重鎮や論功での就任はもちろんその後の自民党史(日本の政治)を動かす若手の人物が登用されている。 ここでは金丸信に注目してみよう。 1914年山梨県中巨摩郡今諏訪村(

#72-3 札幌オリンピック(その1)残念

1972年(昭和47年)2月3日から2月13日 小学校では笠谷のモノマネ。 V字もなかったので ”カサヤ”と言いながら足と手をそろえて斜めに倒れるだけ 当時は70m級(宮の森)と90m級(大倉山)、女子なし、団体なし 当時”K点”は、「これ以上飛ぶと危険であるという”極限点”」の意味でした。今はジャンプ台の建築基準点で「K点越え」が普通になっています。 大倉山では失速して7位。 NHKアナウンサーは「残念」でした。「おめでとう」でなく。