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女の子はお砂糖とスパイスとで出来ているのでどんな「可愛い」も全部愛しい

この記事を書いてから4年が経過して、呪いはとっくに解けたので、そろそろ変に苦しんでた自分を助けちゃろと思います。
4年前の自分ヘ、自分を追い詰めてまでそんなわけわからん方向に努力する必要もないけど、お前が努力してたおかげで今わりと何着ても可愛いよ。



結構長いこと「女の子らしい女の子でいなければ」みたいな強迫観念に駆られていた。4年前の自分の言葉を借りるなら「頭のてっぺんから爪の先まで『女の子』でいなければ、と思いながら」生きていた。ピンクの似合う女でいなければいけないと思っていた。

とにもかくにも可愛いと思われたかったのだ。セルフプロデュースに余念がなかった。


高校1年生の時、母が白くてふわふわしたニットのワンピースを買ってくれた。それまでナチュラル系のセレクトショップの服ばかり着ていたわたしは、あまりの可愛さに衝撃を受け、当時流行りの全盛期だったmixiに写真を載せた。ちなみにわたしは暗かったくせにmixiの中では饒舌だった。今色んな黒歴史を思い出してお腹が痛くなってきています。

載せた写真は、めちゃくちゃ褒められた。
嬉しかった。
そりゃあもう、10年経った今でも思い出すくらいに嬉しかった。

(10年…………?まじで?)

わたしはこういう系統が似合うらしい、と気づいた瞬間だった。
加速度的にフェミニンで華やかな服装が好きになっていった。

褒められたい。
可愛いと思われたい。
そういう雰囲気が似合う女の子でいたい。
そういう雰囲気が似合う女の子でいなければ。

褒められる快感に狂ってしまった。あーあ。
10代後半というセンシティブな時期に刺さったその杭はその後なかなか抜けなかった。

スタートが既にそんな感じなんだから、そりゃあ自意識もバグります。どこまでも自己愛こじらせ野郎だった。思春期終わんないよ。やだもう。「ピンク色のリボンに体中を絡め取られている」とか言い出す始末だし。大丈夫か?こじれてるね?一回深呼吸した方がいいんじゃね?
そうこうしているうちに超疲れちゃったのは、まあ、当たり前だったね。



そんで、そんな感じで生きてきて、そんな自分を意味もなく卑下したり必要以上に愛したりして、呼吸の仕方もわからないような日々が続いて、大学4年の夏、突如髪を金に染めた。
話の展開が急。
別になんのきっかけもなかった。春には就職するし、人生で1回くらいやっとくか、みたいな感じだった。


金髪、超似合った。


それまで長らく黒髪で、染めたとしても日の光の下でしかわからないような茶色だったのに、突然の金髪。まわりの人には驚かれた。それがなんだか気持ちよかった。
なにより、鏡の中の自分が自分ではないみたいでテンションが上がった。
金色の髪に、それまで愛していたふわふわしたワンピースも、ピンクの爪も、似合わない。それでもよかった。
ああわたし、どんな自分にもなれるんだ。そう思った。


その後髪の毛は青、赤を経て、翌年就職により一旦黒に戻り、そのまた翌年フリーターになったので再び金になり、オレンジ、ピンク、緑、ネイビーと、一通り自由にやった。頭皮に対する遅い反抗期。時折落ち着いた色にしたくなって黒にしたり茶色にしたりもした。
その都度服装もメイクも変えた。
意外とこういうのも似合うんだ、という新たな気づきと共に好きな色が増えた。したい格好も増えた。財布の中の金は減っていく一方だった。でも楽しかった。

そして、愛して、同時に忌み嫌っていたピンク色のことも、素直に愛せるようになった。

今好きな色を聞かれたら結局ピンクだと答えると思う。なんて言ったって超似合うしな。
「こうしなければならない」を抜けて、素直に好きだと思えない時期を経て、たくさんある好きなもののうちのひとつだと思えるようになってからより一層好きになった。ピンク色も、女の子らしいものも。似合うんだもん。この「似合うんだもん」は自惚れではなくて、それらが似合う女の子になりたかった自分の努力を評価しています。似合うんだよ。そりゃあそうだ。そうなりたくてずっと頑張ってたんだもんよ。

ごめんね今まで真っ当に愛してあげられなくてね。ちゃんと好きだよ。ずっと一緒にいてくれてありがとう。わたしの人生を一番鮮やかに彩ってきてくれた色だ。



他人ウケが悪だとか、自分ウケが最高だとか、そういうことを言いたいわけではない。ていうかどっちも欲しくない?わたしはどっちも欲しいよ。

人目なんかどうでもいいから好きな服を着ようと思う日もあれば、当たり前に「可愛い」って思われたい日もある。今だって相手の好みに合わせて服を考えたりしちゃう。そんで、あの記事を書いた頃はそういう自分をなかなか愛せず、滑稽で主体性のない馬鹿だと蔑んで、それなのにやめられなくて苦しかった。
でもいいじゃん。褒められたら嬉しいじゃん、そんなの当たり前じゃん。可愛いって言われたら小躍りしちゃうじゃん。それのなにがだめなの。そういう自分のことを、可愛いなと、やっと思えるようになった。だって本当はどんな格好だって出来るんだし。

「それしかない」と思い込んでそう在るしかなかった自分ではもうなくなった。自由に色んな自分でいられる中で、たくさんの選択肢の中で、あえて誰かひとりに可愛いと思ってもらうためにそれを選ぶ瞬間があるとしたら、それはどう考えたって可愛いでしょ。愛でてくれ。
わたしは今も、容姿こそ人並みだけど、いつだって可愛くありたくて、そのための努力を楽しめているので、誰がなんと言おうと可愛い女だよ。

そんで、「可愛い」と「女の子らしい」はイコールじゃないです。それに気がつくのに10年を費やしてしまった。
わたしのクローゼットの中には種類の違うたくさんの「可愛い」が詰まっている。いろんな「可愛い」の選択肢の中から、その日の気分に合わせて原色バキバキなブルゾンを選んだり、ふわふわのピンクのワンピースを選んだり、真っ黒なセットアップを選んだりして生きている。
それが自分の為だとしても誰かの為だとしても、等しく全て可愛いのだ。

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統一感という概念の死。でもマジなんの問題もないです。全部似合う。


そういえば服を買う時、昔は「こういうイメージだと思われていそう」みたいな感覚で第三者からの目を気にして選んでいたけど、今は「ヤバ!!これ絶対似合う!!」「あらこっちも似合う!!着こなしちゃうわ!!」と思いながら買っています。楽しい。自分に似合う服を見つけるのがめちゃくちゃ上手になった。ていうかあれも似合うしこれも似合うんだわ、実際どうであれ自分がそう思ってりゃそれでいいんだわ。



わたしに「君は頭のてっぺんからつま先まで女の子なんだな」と言った当時の好きな人はマジでこれっぽちも振り向いてくれなかった。それでも今でも友達で、彼は自由ににこにこしているわたしを見て「当時の君は外側が可愛いなという印象しかなかったけれど、今は君という人間の可愛さがわかる」と言ったりする。皮肉なもんだ。君の「可愛い」が欲しくてもがいていたわたしはもういないのに。でもそうだな、そうだろうな、と思う。
そんでもって、「君は面白いよな」なんて言われてしまったので、「可愛い」以外に嬉しい言葉だってたくさんあるんだな、なんて思ったりもしたのだった。

この年になってやっと心からしたい格好をする楽しさを覚えてしまったので「年相応」みたいな言葉と葛藤することもたまーにあるけれど、なにくそ、死ぬまで好きな格好をするからな見てろよ、と思う。マジ年齢とか関係ねえからな。ルッキズムをぶっ壊す卐。この話はまたどこかでします。

最近は大きなリボンがついた赤い靴を買った。最高の気分だ。どこへでも行ける。

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どこへでも行こうと思うよ。
またね。




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