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山茶花の季節の終わりに
三十年ぶりに一眼レフを手にした時には、フィルム カメラは流石に諦めた。それでもミラー付きの一眼レフにこだわり、さて撮影を始めてみた。
驚いた。
デジタル一眼では、写真を撮るスピードがものすごく早く、PCにストックする写真の枚数が爆発的に増えていった。
四十年来のPlanar沼住人である。ちょうど世界的大手通販サイトで安く出ていたCarl Zeiss T* Makro-Planar 100mm f2を、中古で入手した。一枚撮るのにも時間がかかっていたフルのマニュアル・カメラを使っていた時代には、想像もつかない勢いである。データ容量の浪費は、凄まじい。
だが、ピントを合わせるのは、半世紀前に比べて、はるかに時間がかかっている。というか、マニアルで、ピントが合わない。
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高校時代からの憧れの的、AF300mm f2.8EDを、これもまた中古で、世界的通販サイトから、驚くほどの安値で購入した。だが、試しにつけてみて、ベランダ越しに鳥たちにカメラを、向けた時に、資源の無駄遣いは最初のピークを迎える。
大口径のいわる大砲レンズを扱うのであり、オートフォーカスの助けを借りていても、ピント合わせは容易ではない。
ピントが合わない。。。
撮った写真はほぼピンボケで、全滅であった。まもなく300mmF2.8EDは、返品してしまった。勿体無いことをした。
写真を撮り始めたのは、小学生時代。亡き父の仕事用の写真をダメにして、随分と怒られた。裏蓋を開けてしまったのである。亡き父は職人、カメラは報告用書に添付するための写真のための道具。その割には、カメラ好きだったようである。コンパクトなストロボ付きのカメラの前には、長い間、古い蛇腹の中判カメラ(どこにいったのだろうか)が家の物置にあった。ブローニーフィルムを使い、レンズシャッターのこのカメラは動かなくなっていたようで、その後行方不明。
今思えば、残念なことをしたものである。不燃ごみとして、几帳面な性格の長兄が、古い実家を建て直すときに、しっかり処分したのであろう。整理整頓の行き届いた兄は、神棚にあった小銭入れから少しづつ抜いて、買いためていた大量のプラモデルも、眉毛ひとつ動かさずに、捨てていた。
すでに適応障害が出ていたことは間違いない。お小遣い、というものもあったはずなのだが、それを遙に超えるお金を、プラモデルのために使ってしまっていた。なんかの弾みで止まったのだが、買って組み立てても、色も塗らない、組み立てただけの飛行機のプラモが増えていった。
少年期はストロボ/フラッシュ付きの小型カメラ(※※コ◆カ)が、一世を風靡した時代である。昭和の二年目に生まれ、第二次世界大戦中に青年期を送った父は、戦中近隣の青年団の先輩から、随分後になってから、プロフェッショナルのカメラマンが使うようなカメラと、そして大口径の標準レンズを譲り受けたようである。最も、それで写真を撮ってくれたと言う事は、金輪際一切ない。
気まぐれな父親だったので、長兄の写真は山のように撮っていたが、末っ子にレンズを向けることもなかったのか、アルバムにあった写真はそのほとんどは、赤の他人が撮ってくれたものだったという。数枚を除いて、見事に。
もう少し何度か、カメラを向けてくれたはずなのだが、記憶は美化されているようである。なにしろ古い写真を前に、亡き父が撮影したものと思い込んで話をしていたら、老母は見事にはっきりと否定して、近隣のおじさんたちの名を、撮影者としてあげていた。亡き父も若干、コミ障害だったのかもしれない。
たったの一度だけ、SLのサヨナラ運転に連れて行ってもらった時、D51かC61に乗せて写真を撮ってくれた。が、間近で鳴り響いた突然の汽笛が、こどもには鼓膜を破らんばかりの轟音に聞こえて、泣き始めた、その姿は、確か亡き父が撮ってくれたようである。だがアルバムの中で、秋田犬との雑種の白い犬の前でニコニコと笑っている、満面の笑顔のあの写真も、亡き父ではなかったようだ。想い出は美しい。
こんな亡き父であるが、老母のことは好いていたのだろう、秋の菊の花の間を、老母に抱かれた写真は、亡き父が撮ってくれたはず。確かどこかにあったはずなのだが、おそらくは家族のアルバムに入っていたのだろう。
中学生になってから、初めて自分のカメラ、というものもを手にした。Contax RTSそしてRTS IIの時代に写真を始めた身には、Carl Zeissという名前も、T*のコーティングも、何よりもPlanarというレンズが、憧れの的でありこそそすれ、実際に使うことができるなどとは思いもしなかった。若者向きの「連写一眼」メーカーのカメラが欲しかったのだが、亡き父の勧めもあって、あまり気の向かない、亡き父のカメラと同じメーカーの、マニュアル専用だが、最速のシャッタースピードが速く、高速でフラッシュ(ストロボ)ともシンクロするボディーを買った。蟹爪の大口径レンズはAi 化することを亡き父に飲ませて。もし将来、より高級なボディを買うことができるときには、サブ機として末永く使えると思ったからである。想定通り、長期にわたって全く故障なく、譲り渡した友人の手元で、今も立派に稼働していると言う。
漫画家にしてバードウォッチャーの岩本久則氏の本をバイブルのとしていた身としては、野鳥を撮るために300mmが欲しかったが、中学生らしく200mmと、のちに28mmで我慢して、でもアルバイトでもしたのか、中古の105mmも手に入れて、父のカメラも勝手に使いながら2台体制で、生意気にポジフィルムでの撮影に挑んだ。プロは編集で、ネガフィルムなど見ない、と耳学問、恥ずかしいことだ。
プロたちは、ハッセルブラッド以上、リンホフ上等の世界の住人。とても太刀打ちできる訳がない。
だが、白黒写真は本当に面白かった。アンセル・アダムスを教本に、暗室での現像焼き付けは半切までがデフォルトの引き伸ばし機に、全紙大も無問題の好環境で、国産から、コダック、さらにはイルフォードのフィルムと乗り換えていった。一度は仲の良い友人のガールフレンドのネガフィルムの傷を直そうとして失敗。その後彼は、一切口を聞いてくれず、会うこともなくなってしまった。
自分で買った新しいコーティングのシャープなレンズよりも役に立ったのが、亡き父の大口径標準レンズである。
天動説で自分が宇宙の中心、旧制の尋常高等小学校で級長、自己愛の固まりの亡き父。
いろいろなことに興味を持っていた。
盆栽を大量に庭に並べていた。亡き父が夏に数日不在のときには、黒の残り湯を何十往復もして、枯らさないように水やりをするのが、子どもたちの役目。鳥類も好きだった。子どもたちをだしに、近所の小鳥屋から買ってくるのだが、すぐに世話をするのに飽きてしまう。押し付けられた老母は、まだ中学生の時に兄が建てた鶏小屋の天井から、小鳥たちのカゴを吊るして、面倒を見ていた。
老母は忘れていたことであろうが、鶏声の掃除と小鳥たちの面倒は、小学校の中学年から中学校を卒業するまで、ずっと手伝った。もっとも、さすがに、鶏たちは一羽死に、次も死んで、徐々に飼育スペースも狭くなる。鶏小屋から出された小鳥たちは、母屋の方で玄関の靴箱の上に安住の地を見出した。中学を卒業する年までは、面倒を見ていたのだが、最後の十姉妹もここで亡くなり、鳥籠はまた、物置がわりになった鶏小屋に逆戻りした。
小鳥たちとともに、亡き父のカメラは我が身の回りに置かれることが多くなった。小鳥たちが全ていなくなった後に、高校に通い始めると、毎日持ち出していた。
Leica T (type 701)というカメラが来てから、撮影枚数が抑えられているような気がする。かしゅっ、かしゅっ、と気味よい、しっかりと撮れた、という感触が心地よい。
最初に譲っていただいた、Elmar 50mm f3.5は、もったいなくて使えなくなってしまい、防湿庫にある。S-Planar 120mm f5.6の旧所蔵者と同じ方から、ご縁があって、譲っていただいた。
世田谷のライカ専門、を自称する個人から、ネット経由で購入したElmar 65mm f3.5というマクロレンズも手元にあるのだが、無限遠がでないうえに、レンズはっきりと曇りがある。これは、つかまされたが、しかたない。注意して使えば良いのだ。
だが山茶花の季節に、ご縁があった Summarit 5cm 1:1.5 は、しっくりきた。Leica Tと組み合わせて、持ち歩く。
解放では若干、というかかなりフレアがでるが、梢のハイライトが煌めく。
少し白っぽくなるが、冬の日差しには調和して、とても好ましい。
初めてカメラを持った小学生の時、フルマニュアルの一眼レフを買った中学生の時も、こんな感じだったか。もっとキリッと、シャープなレンズだった。亡き父の国産大口径標準レンズは例外的で、会心の一枚というか何枚か、撮れた。
飽きもせず、日々、このレンズを持ち歩いていたが、思春期の終わり、視力が落ち、生き疲れて失意の中で、写真をやめてしまった。
亡き父はレンズとカメラを、物入れに仕舞い込んでいた。
中学時代に買ったカメラとレンズは、友人に安く譲ってしまった。
父が死んだ後、兄姉は全く、亡き父のカメラとレンズには、関心を示さなかった。何十年もたって、再び取り出すと、亡き父のレンズには経年の疲れが見えた。コレクターのお気には召さないかもしれないが、写真を撮るには問題ない。国産高級カメラはかなり疲労困憊状態。すでに露出計は使い物にならない。合成樹脂系の緩衝材もボロボロと落ちるが、しっかりとシャッターは、正常に動いていた。
実家に帰省した正月、今一度、亡き父のレンズを取り出してみる。
カメラにつけて、シャッターを切る。
高校を卒業すると同時に、失われていた感覚が、ふと、戻った、
ような気がした。
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今年最後の山茶花になるのだろうか。
亡き父が遺してくれたレンズは、兄姉の承諾がないままに、今、手元にある。意識が戻ったり、戻らなかったりの老母は、意識が戻り、家に帰ることができたら、勝手に持ち出した、と言って怒るだろうが。残念ながら、老母が叱る声を、もう聞くことはできない。
高校の時には気づかなかったが、亡き父の国産大口径標準レンズを通すと、世界が華やかに見える。
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現在使っているミラーレス一眼は軽いが、オールドレンズをつけても違和感ない。だが亡き父の、重い、古い、大口径レンズをつけると、一層しっくり落ち着く。
ミラーレスとの組み合わせが、少し、Carl Zeiss Jena Biogon 35mm f2.8の装着感に似ているような気がする、不思議。亡き父の国産大口径レンズは、金属の鏡筒にゴムのフォーカスリング。全く素材も、作られた時代も違う。しっくり感の由来は、レンズの自重のせいだけでは、ないだろうに。
亡き父の国産大口径レンズを、Leica Tにつける。
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ライカか…
亡き父の声がしたような気がした。
明日からは荒天。
秋の終わりから楽しませてくれた山茶花も見納め。
写真データ(Jpeg撮って出しです)
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Leica T type 701, Summarit 5cm 1:1.5, ISO 100, 0ev, 1/30 s, f.1.5
本文
① 2025年2月7日 Leica T type 701, Summarit 5cm 1:1.5, ISO 100, -1ev, 1/4000 s, f.1.5
② 2025年2月5日 Nikon Z, Nikkor 55mm 1:1.2, ISO 100, -2ev, 1/1000 s, f.1.2
③ 2025年2月7日 Leica T type 701, Summarit 5cm 1:1.5, ISO 100, -1ev, 1/3200 s, f.1.5