李承晩(イ スンマン)韓国初代大統領は許されざる悪者なのか?
韓国の初代大統領、李承晩(イ スンマン / 1875年3月26日 - 1965年7月19日)への評価は、韓国で大きく二分している。
李承晩を分断の元凶、独裁者...と悪魔のように悪者呼ばわりする人と、初代大統領としての功績を認める人…にざっくり分けられ、彼への評価が、その人の思想や理念をある程度反映しているようにも思える。
私は朝鮮学校で教育を受けたので、李承晩については悪者のイメージしかなかった。奥さん(フランチェスカ女史)が外国人であることを含め、すべてを徹底的に批判する教育を受けた。
韓国に暮らし始めて、彼への評価が今でも極端に分かれている現実を知り、ずっと気になっているテーマだ。(現在進行形で)
女性として、フランチェスカ女史の人生も気になるがそれはまたの機に。
クリスチャンである我が家は周りにキリスト教の知人が多いが、韓国クリスチャンの多くが、李承晩が信心深いクリスチャンだったとう事実を抜きにしても、李大統領の功績を称えている…という一面も興味深かった。
今の韓国を生きる子供たちの学校では、先生の理念によって少しずつ異なるが、ほぼ100%否定的な評価で学んでいるようだ。
娘も小学生の頃、「イ スンマンはすごく悪い大統領だって!」と学校で学んできた。
今回、李承晩初代大統領へのメモと考えをまとめておきたい。
果たして彼は、歴史に残る悪者なのか?
以下、【世界史の窓】サイトから引用
戦前からの韓国の独立運動家で1919年、大韓民国臨時政府を上海に樹立。後、アメリカに亡命し、日本敗北後朝鮮に戻り、1948年に大韓民国初代大統領となる。朝鮮戦争後も独裁政治を継続しながら、経済成長・国民生活の向上などで実績を上げることはできず、1960年の民衆蜂起(四月革命)によって退陣に追いこまれた。
韓国の独立運動家として活動し、日本敗北後の1948年8月15日に成立した大韓民国の初代大統領に選出された。独立運動家としてはアメリカを拠点に活動し、1919年の三・一運動直後に上海で結成された大韓民国臨時政府でも大統領に選出されていた。上海での活動が日本軍の弾圧を受けると再びアメリカに拠点を移し、日本敗北後に韓国に戻った。北朝鮮との統一による独立を目指した呂運亨と、反米的な独立運動家の金九を暗殺、反共親米路線を明確にした。
戒厳体制
韓国の成立とともに政権についた李承晩は、その後三度、戒厳宣告を行っている。1948年8月15日に建国宣言を発したものの、韓国軍の反乱にあい、10月には早くも第一回の戒厳宣告となり、そのまま朝鮮戦争に至った。朝鮮休戦会談中の52年5月、第2回の戒厳宣告、李承晩以下政府首脳の暗殺計画が発覚したとして国会議員多数を逮捕、憲法を改正して大統領再選を確実にし、米韓安保条約を結んで独裁体制を強化し、53年8月に戒厳を解除した。第三回の戒厳宣告は1960年の大統領4選をめぐる不正選挙が学生革命に発展した6月19日だったが、もはや軍の支持を得られなくなった戒厳宣告に威力はなく、李政権は倒れた。その後も韓国ではしばしば戒厳令が出されており、韓国の歴史は、戒厳体制の歴史であると言ってもよい。
朝鮮戦争
1950年6月25日に金日成のもとで北朝鮮軍が南に侵攻し、朝鮮戦争が始まると、短期間にソウルを奪われ、一時は釜山まで後退したが、国連軍(その実態はアメリカ軍)が派遣され、その支援によって反撃してソウルを奪還した。それに対して北朝鮮軍を支援する中国義勇軍が参戦したため、再び圧迫されてソウルを奪われた。その後激戦の中でソウルを再度奪還したが、戦局は北緯38度線付近で停滞、休戦交渉によってようやく1953年7月27日、板門店で朝鮮休戦協定が成立し、休戦した。朝鮮戦争は、南北朝鮮に大きな被害を及ぼしたが、韓国でも多くの若者が戦死して労働力不足となり、インフラも破壊されて生産力が落ちこみ、その回復が課題となった。
四月革命で退陣
朝鮮戦争休戦後は次第に独裁色を強め、いわゆる開発独裁として韓国の復興を進めたが、明確な工業化のプランをもっていたわけではなく、経済成長を実現させることはできなかった。そのため、大衆的な支持を得ることができず、1960年4月19日に独裁政治に反対するソウルの学生運動から始まった民衆蜂起が四月革命といわれる盛り上がりをみせると、それによって大統領辞任に追いこまれた。なお、日本との海上の領海をめぐって争い、一方的な李承晩ラインを設定し日韓間の領海、領土問題でも厳しい姿勢を採った。
上記、サイトからの引用だが、韓国のナムゥイキサイトの内容はこちら。
https://namu.wiki/w/%EC%9D%B4%EC%8A%B9%EB%A7%8C
この中に、彼が残した様々な語録が紹介されているが、強烈な反共主義者らしい言葉が印象的だ。
一部から分断の元凶と指摘され続けてきた「井邑発言」について、民団サイトの解説を抜粋。
https://www.mindan.org/old/front/newsDetail3836.html
李承晩「井邑発言」の意味
米英ソの外相によるモスクワ3相会談の決議により、46年3月20日に開催された第1回米ソ共同委員会は、統一的臨時政府樹立および米英ソ中の4大国が後見する信託統治実施のため、米ソとともに協議に参加する南北政党・社会団体の構成をめぐって暗礁に乗り上げ、5月6日に決裂した。
こうした情勢下の6月3日、李承晩が全羅北道の井邑で、「南だけでも臨時政府もしくは委員会のようなものの」組織を提唱する談話を発表した。
この「井邑発言」が、後の分断政権につながったとして、李承晩は、北韓側から南北分断の元凶のように喧伝されてきた。
しかし、「井邑発言」は、ソ連の指導のもとで着々と金日成中心の「単独政府樹立」を推進する北部の実情をにらんでのものだった。
45年8月9日に朝鮮に進駐したソ連軍は、25日には平壌に司令部を設置し、即日、南北をつなぐ鉄道、電話回線を遮断し、38度線を封鎖して人と物資の往来を閉ざすとともに、「建国準備委員会平安南道委員会」を解体、「平安南道人民政治委員会」に改編した。
10月には、その間モスクワでスターリンの面接を受けた金日成が、平壌のソ連軍歓迎集会でソ連軍の軍服を着て「金日成将軍」として登壇、初めて大衆の前で演説した。
46年2月8日には「北朝鮮臨時人民委員会」が組織された。これは事実上、「北韓地域の単独政府」であり、金日成が委員長に就任した。そして3月5日、無償没収・無償分配を原則とする土地改革法令を発表し、8月10日には産業国有化も実施した。
つまり、第1回米ソ共同委員会が始まる以前の46年2月には、北部にすでに単独の権力主体が強権的に形成されており、3月の時点から早くも法律や統治機構など、今日の北韓の骨格を成す独自の立法行為を通じて、権力を行使していたのである。
李承晩による「井邑発言」は、こうした一連の既成事実のいわば追認にすぎない。北部にはすでに、民族主義者を排除した、実態としての一党独裁的政権が実存する以上、南部でも単独政府を打ち立てざるを得ないというところに、本質があった。
信託統治をめぐる米ソ共同委員会は47年10月21日、第2回会議の決裂をもって終わった。北韓当局は同年11月には通貨改革を実施、中央銀行券を発行して旧貨幣を破棄した。
米ソ共同委の決裂によって、朝鮮問題は国連に上程され、国連総会は47年11月14日、全朝鮮での統一総選挙の実施を決議した。ソ連はこの総会決議に欠席し、拒否権も放棄したうえ、選挙の事前準備のために北部への立ち入りを求めた国連臨時朝鮮委員団の受け入れを拒否した。
このため国連総会は48年2月26日、南だけの単独選挙を決議し、48年5月10日のいわゆる「5・10単独選挙」に至る。そして8月15日、大韓民国政府は樹立された。
その半年以上も前の2月8日、「人民軍」まで創設していた北部は、韓国政府の出帆をまって9月9日、親ソ国としての朝鮮民主主義人民共和国を発足させた。ちなみに、この国名はロシア語からの直訳であった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2023年7月はこの宣言から77周年。
様々な学術セミナーが予定されているようだ。
韓国の保守系新聞の記事。
【李承晩の「井邑宣言」は、分断ではなく統一民主政府樹立の大きな構想】朝鮮日報(2023年5月22日)
【李承晩「井邑発言」はソ連の戦略を見通した現実的対応】
中央日報(2008年7月18日)
ここでの主張を簡単に要約すると、
1945年の解放直後から李承晩は朝鮮半島に一つの統一民主独立国家を建設すべきと、米・ソ連・英・中国の首脳に電報を送った。韓国へ帰国後、38度線撤廃運動を展開。自分と金九、チョ マンシク、金日成で構成された南北指導者の会を開き、12月までに中央政府を作る計画を立てた。朝鮮半島の臨時政府樹立のための米ソ共同委員会が開かれると、李承晩は人口比例で南北指導者が集まり、38度線を撤廃し統一国家を建設しようとしたが、すでに北朝鮮に人民政府を立てたソ連は、韓国も社会主義国家にする計画で動いた。
このような状況下で「井邑宣言」が発表されたという解説。
李承晩は米ソ共同委員会がすでに失敗したと判断していた。なぜなら、ソ連は親ソ勢力で政府を構成しようとし、米国はこれに反対。米ソ共同委員会を通じた統一政府樹立は困難だという実質的な判断をここで下した。
残された方法は南側に臨時政府を樹立し、国際社会の認定を受けた後、ソ連を圧迫して統一政府を作る方案だった。
つまるところ、「井邑発言」は単独政府の樹立を目標にしたのではなく、統一政府が究極の目的だった。
従って、この「井邑発言」を朝鮮半島分断の出発点として理解することは誤りである。
「先に臨時政府を樹立し、後で民族統一を達成」するための段階的統一政府樹立論と評価されるべき。李承晩は冷酷な国際情勢を認識した上で、この宣言に至った…というのが正しい解釈という。
李承l晩に対する否定的な主張は、このような本や
オーマイニュースの記事や
https://namu.wiki/w/%EC%9D%B4%EC%8A%B9%EB%A7%8C/%EB%B6%80%EC%A0%95%EC%A0%81%20%ED%8F%89%EA%B0%80
否定的評価をまとめたナムウィキサイト等を参考にすれば大体理解できる。
とにかく李承晩を語ること自体が、極めて政治的な話となっている韓国社会。功罪を語るうえで、「罪7 VS. 功3」…と評価する研究科の話が印象的だった。
ちなみに北朝鮮の金日成広場には2012年頃までマルクス、レーニンの肖像画があった。ソ連が北朝鮮を衛星国家にしようとしていた目論見を、当時も(今も)多くの人が見逃していた…という指摘にも個人的にはうなずける。
李承晩の評価がどう変わっていくのかを含め、今後も追い続けたいテーマで、まだ知りたいことが多くあるが、100%の善、100%の悪…という風に現代の視点で歴史を白黒に分け、どちらかだけが正しいに違いないと単純化することの危険性を、これからの世代に教えていくことが最も大切かも知れない。