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イザベラ・ガードナー美術館

この美術館の特徴を一言と尋ねられたら、私はいつも「自分に正直に生きた女性の墓標」と答えるようにしています。
この美術館へ来ると、そんな彼女の声が聞こえるような気がするのです。

  私が初めてこの美術館を訪ねた時の印象は、失礼ながら「成金女性が。。。」と思うような冷ややかなものでした。
中庭の美しさ、建物の美しさには心から感動しました。でも、コレクションに関しては、お金に物を言わせて。と思うような気持ちがあったのです。
しかしながら、いろいろ調べて行くうちに彼女のこの美術館へかけた思い、あの時代を生き抜いた一人の女性としての魅力。そんなことに心から惹かれて行く私がいました。

 そんな気持ちをゆっくり綴っていけたらと思っています。


この美術館へかけた思い

 大変裕福な家庭に生まれた彼女はニューヨーク生まれですが、当時の良家の子女の例に習ってイギリスで教育を受けます。まさに私も幼い頃に読んだ「小公女」の世界です。そして17歳の時、イタリア、ミラノに旅行中に

の個人コレクション美術館を見るのでした。
そしてその時に、「もし自分がお金を相続することができたら、同じような家を建てて、人々が訪れて楽しむことができるようにしたい」と語っていたといわれています。

 そして裕福な家で育った彼女は、そのまま、またボストンの大変なお金持ちと結婚することになりました。順風満帆のような人生ですが、彼女に辛い試練がおとずれます。それは愛しい我が子を失うということでした。そして追い討ちをかけるように流産を経験した彼女は大変な鬱状態に悩まされるのです。

 妻を心配した夫は、周囲からの勧めもあり欧州旅行へ彼女を誘います。
しかしながら、その時の彼女はあまりの症状の重さから歩くこともできず、担架で船に乗ったという逸話も残っているのです。

若き頃の夢を追いかけて

 少しづつ傷が癒える妻を見守るように、夫妻の欧州旅行は繰り返されました。
そして1885年、イタリアを訪れた彼女はヴェネチアでルネッサンス芸術に大変な衝撃を受けます。そしてそこから彼女は本格的な美術蒐集家としての道を歩み始めるのです。 当時の彼女は45歳。あの時代なら、「孫もいて」という女性としての一つの幸せの形があったかもしれません。その当時の彼女よりもずっと年上になった今、私は、その時に17歳の時の夢を追いかけ始めた彼女に愛おしさを感じずにはいられないのです。

蒐集の歴史

 辛い気持ちで出発した欧州旅行でしたが、この旅行が彼女のそれからの人生を決定づけます。1年間ほどの旅行の間ほとんどの時間をパリで過ごした夫妻は、たくさんの芸術品に触れます。そして彼女はその時に、旅の記録をスクラップブックにまとめるという、生涯の習慣を身につけたのだとか。そして帰国後、彼女は流行の先端をいく女性としてアメリカ社交界の名声を確立してゆくのです。まるで、今時のインスタグラマーだったのかもしれませんね。

 1870年代からは希少価値の高い書物や草稿を蒐集し始めます。そしてさらに領域が広がり、彫刻彫像、織物、家具、陶磁器、金属加工品などもその対象となっていくのでした。

 私が初めてこの美術館を訪れた時の嫌悪感は、この多岐にわたる蒐集という、その威圧力だったように思うのです。

コレクションへのこだわり

 その威圧感は、この美術館のどの部屋にも感じます。
これとこれを一緒に置くかなあ。。。とか、うーん、もう少し空間があって欲しいなあ。。とか、生意気にも感じるのです。
しかし、このすべての配置も彼女のコレクションへのこだわり。
遺言で、彼女が決めたこの配置のままで公開すること。となっているのです。

 映像文化を身近に感じる私には、この何もかも並べ連ねたような配置に威圧感を感じます。でも、今、目の前にあるものだけがすべてだった時代、これだけの作品を壁中に並べるということは、芸術の高揚感を感じるために必要だったのかもしれないと思った時、私は彼女の作品へ込めた情熱を感じてこの美術館が発するパワーに圧倒された思いがしたのです。それが私がこの美術館を彼女の墓標と思う所以となりました。

芸術の後援者として

 ガードナー夫妻は美術品蒐集家として精を出す一方で、同時代の画家や音楽家を金銭面で積極的に支えていきました。1904年 ボストン美術館勤務となった岡倉天心とも交流があったということも頷けます。

 ボストン美術館に深い関わりを持つ

の作品コレクションにガードナー夫人が関わっていることも納得します。

美術館の建設

1898年夫のガードナー氏が亡くなり未亡人となった彼女は、かねてから夫が計画していた美術館設立に力を注ぎます。
ボストンの湿地帯フェンウェイに土地を購入し、建築家ウィラード・T・シアーズに依頼して、ルネサンス期のヴェネチアの宮殿を模した美術館を建設しました。しかしも彼女は設計のあらゆる面に深く関わり、シアーズは「自分はガードナーの設計を可能にする構造技術者に過ぎない」と言うほどだったといわれています。建物は、アメリカ初のガラス張りの中庭を囲むように建てられています。

 私は初めてこの中庭に入った時に、この鉄骨とガラスは後年この中庭を保護する目的で作られたのだろうと思いました。しかしそうではなかったのです。まさに、その頃のアメリカ建築の技術を駆使して作られた景観だったということに驚かされ、また彼女の情熱を感じました。

 美術館が一般に公開されたのは1903年2月23日
ここは彼女の趣味を集めた美術館であるとともに、彼女の邸宅でもありました。1924年7月17日、84歳の生涯を終えるまで、彼女はこの家で暮らしたのです。



ボストンに春をつげるナスタチウム

  この美しい中庭にナスタチウムが垂れる姿は圧巻です。
ただ、この私の映像。カメラもあまり良くなかった時代のもの。早くまた撮り直したいですが、それまではこちらをご覧ください。

盗難事件


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StudioHyacinth
1992年からのアメリカ暮らし、ボストンはそろそろ四半世紀になりました。 「取材」と称していろいろ経験したり、観光ガイドも楽しんでいます。 https://locotabi.jp/loco/hyacinth 応援していただけたらとても励みに思います。