信用の使い分け

長々と書いてきてしまっているけど
人を信用しちゃダメって訳ではないです。
しかし、信用というものがこれほど人の
心理とメンタルの行方を大きく握る以上、
とても慎重に扱われなくてはいけないと
思い至ってみたのかもしれない(よく分からないけど)

●時代と信用
原始時代とか、縄文・弥生時代とか
生きるのに精一杯で文化とかの余裕も無い時は
集落・集団が生き残るのが最優先なので
相手を騙したり嘘を付く者は
集団から排除される。(集団の存続に関わる)
2つ前の『信じることは気持ちいい』にも記載
した、群のリーダーや序列に従うようにで
きている。のように
原始的な本能的な反応と思い込み
また儒教によって広まった考え(?)
五常(仁・義・礼・智・信)のように
文化が出来てきて、集団の社会が安定してきて
人間同士の社会秩序のルールが大事に
なってきてく中で人を騙さず、信用する
されるような人と社会を目指すのは
とても生きやすく素晴らしい概念である。
しかし人が増えていき、人口密度が増せば増すほど
信頼をベースとした社会はそれを維持機能するのが
難しくなっていく。

●現代の問題
人が少なければ誰が不誠実かの情報共有も
容易く、欺いた後逃げ切るのも困難であるが
密度が増えすぎると、誤魔化すのも逃げるのも
容易くなってしまう。
リスクが減ればルールを破る者が増えるのも
やむを得なくなってしまう。
ルールを守るより、バレないように欺き利用する
方が得をすると考える者は多くいるだろう
(社会道徳として嘘はダメと分かるけど、
実際明確に法律違反とは限らない。違反と
認めてもらえる嘘と認めてもらえない嘘がある)
そうなると倫理・道徳を守る、正義感があるなどを
持って生まれた資質と環境で学んだ者が
(誠実であることを)守っていくしかないのだが、
守る者がいればいるほど
それを欺き利用する者が得をするのも
また悔しいほどの社会の仕組みとなっていってしまうのである。
交通網が発達して人の行き来が増え、
インターネットが発達し、スマホが誰の手にも
入るようになり人の繋がりが益々容易に
なっていく中で、他人を利用する者が
利用できる相手を貪るのは止めることのできない
流れである。

信用のできない人達の建てた家には住めない
信用のできない交通機関には乗れない
信用のできないお店の食料は買えないなど
信用はお金を払う価値のものであるし
お金を超える価値のあるものである。
誰も信用しない、何も信用しないなどという
生き方は神経を浪費し生活に支障をきたしてしまう。
人に信用してもらう、人に誠実であるという
生き方はとても素晴らしく、誰より尊敬できる
けれど、心の清い人は、心の汚い者の
汚い手口に疎いことが多いように思う…
(勿論経験によって学んでいく人も多いだろうけど)

基本、社会は信頼と信用で成り立っている。
けれどどんなに教育しても反社会的な考えの者や
人を欺く者を生み出さないということはできない。
社会的には良くないことでも
一つの生物として本能的に
自分の都合を優先して生きるという
生き方を全否定することはできない。
だから自分が誠実であると共に
誠実でない者が存在すること、
そういう者がどうやって生きていくのかを
よく理解することが大切である。

信用はとても大切だ。
でも信用を信用し過ぎてはいけない。
(謎な言葉になってしまった…)

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