信じることは気持ちいい
多分きっと、何かの本なんかには
書いてあるんじゃないかと思うけど
(読書量の無い者が何か書くのは知識不足の
露呈なだけなんだけど)
何かを信じている状態って気持ちいいのだと
思います。
少なくとも何も信じていない状態よりは
心が安定するのは容易に想像できる。
人は(生まれた時から親から餌を貰う形態の生き物は
全て)
生まれ付き保護者を信頼するようにできている
それは生きる為の本能として当たり前の機能で
それを受けてまた己も我が子にそれを繰り返して
いく繰り返しの命のリレーなんだけど、
人の社会と精神が複雑になっていく中で
相手を無条件で信じることが利益を得るために
利用できる要素としてとても簡単になって
しまっている。
子どもが無条件で親を信じるように
群れの中の序列でも下の者は、上の者を
信頼するようにできている。
少なくとも命令には従わなくてはならない。
序列に従うことで群れの生存率が上がるので
リーダーには信頼できる者をおき、
それに従うのが効率的である。
生きるか死ぬか切迫している中で
リーダーを疑うのは非常に効率が悪く
群が瓦解しやすくなるので、
平時に信頼できるかを確認しておくのがよい。
こうやって群や集団で生きてきたので
人は目上の者の言うことを信じやすく
できている。
信頼できる目上の元で自分の考えを持って
周りと繋がれている状態が一番人の精神が
安定するのではないかと思う。
正しく信じれている(恋人や家族や友人も含めて)
状態が幸福感を与えるなら
何かを信じた時に脳が幸福を覚えるように
できているかもしれない。
振り返ってみると、私は親のことを
信頼していたか疑問である。
でも親の言うことを信じてはいた。
信じないことは死活問題に繋がると分かって
いたので。信じはしたが納得はしていなかった。
今思えばとても歪な感情のようにも思える。
親の言うこととテレビや周りの大人が言うことは
大体違っていた。
周りの子どもと自分とで扱われ方がまるで
違っていた。
そういう事を自分なりに擦り合わせて納得させるのはとても精神的にしんどかった。
なので私は相手を信じなきゃいけないという
状況がとても嫌いである。
せめて信じるものくらいは自分で選びたいと
常々思っていたのである。
(けれど頭が悪いので結構色々なものに
引っ掛かってきました…)