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【イベント報告】「日米野球外交150(+)年」シンポジウム

野球というスポーツがアメリカから日本に伝わってからすでに150年以上が経つが、その大きな節目を期に、私たちの大学の研究チームは「日米野球外交プロジェクト」を2022年に立ち上げた。これは日本のアメリカ大使館からの助成を受けて開始した、学生との共同プロジェクトである。その一環として、2023年10月にウィリアム・アンド・メアリー大学でシンポジウムを開催し、昨年8月には神奈川県鎌倉市で日米少年野球の交流試合を行った。また、野球の歴史をテーマにしたクイズゲームを作成し、同時に日米の野球界で活躍した人たちのオーラルヒストリーを集め、少しづつ本プロジェクトのYouTubeチャンネルにアップしている。

そして去る2月8日土曜日に、本プロジェクトの一端の締めくくりとして、東京・丸の内の日本外国特派員協会で「日米野球外交150+年」というミニシンポジウムを開催した。登壇者は、ロバート・ホワイティング氏、ウォーレン・クロマティ氏、島田利正氏の3人である。

ホワイティング氏は、『菊とバット』や『和をもって日本となす』をはじめとする多くの著作で知られる名ジャーナリストで、日本の野球のみならず、その文化や社会への造詣も極めて深い。「日本、アメリカ、野球」と題された基調講演では、1872年にホーレス・ウィルソンが日本の若者たちに野球を伝授した時のことから現在における大谷翔平や今永昇太の活躍まで、その長い歴史について語った。

ロバート・ホワイティング氏

続いて行われたパネル・ディスカッションでは、クロマティ氏と島田氏が自らの経験を踏まえて日米間の野球交流について述べた。クロマティ氏は、1984年に巨人軍の一員として初来日した時に空港で多数の報道陣に出迎えられたこと、多摩川のグラウンドでチームメイト全員に一人一人挨拶されたこと、そして当時監督だった王貞治との友情と師弟関係について熱く語った(ちなみに、ホワイティング氏の『菊とバット』を読んで事前に日本の野球文化について勉強したそうだ)。

日本ハムファイターズに39年間在籍し、球団代表も務めた島田氏は、まずは通訳として入社した頃に、監督に楯突いて2軍落ちした外国人選手と一緒に「2軍降格」となった逸話や、アメリカのシステムを参考にした球団マネージメントの方法を上司に提言したこと、球団の北海道移転に関わる事になった経緯などを語った。そして監督として招聘したトレイ・ヒルマンが、チームの変革にとっていかに重要な役割を果たしたかも指摘した。

島田利正氏(左)とウォーレン・クロマティ氏(右)

3人の発表の後は、質疑応答が活発に繰り広げられた。島田氏は、なぜ当初日本の球団へは行きたくないと言っていた大谷翔平をドラフトしたのか、そして二刀流をプロでも継続した理由についても答えた。クロマティ氏は日米の野球スタイルの違いを指摘し、選手は臨機応変にアジャストしなくてはいけないと力説した。ホワイティング氏は、第二次世界大戦下の日本で野球が禁止されるまでの経緯を解説した。

シンポジウムを終えて、野球が日本社会にいかに深く根付いているかを改めて確認するとともに、日米関係――そして国際関係一般――の形成に野球のようなスポーツが果たすことができる役割を啓示してもらえたように思う。このイベントはビデオ録画されており、追々上述のYouTubeチャンネルにも上げたいと考えている。

3人の登壇者、および当日参加してくださった方皆様に感謝の意を表したい。

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