雑感
最近いつにもまして色んなことを考えて、気づいたりしているので、書き留めておく。
私はなんで俳優の活動をもっとやりたいと思ったのだろう。どうしてだろう。と、最近それの答えをずっと考えていたのだけど、きっと、
板の上では全て平等で、誰の好き嫌いも、幸も不幸も入る余地がなくて、私のような人間でも生きることを許されている気になるからかな、と思った。
よく俳優をやるきっかけとして「自分とは違う人生を生きられるから」「自分ではない人間になれるから」といった理由を聞くが、私は疑問に思う(でも人の考える理由なので私に批判する権利はない)。
演技をするにはどうしたって自分から逃れることはできない。というか、演技をすることはそれ自体自分の精神と肉体との会話だ。演技をすることはとにかく自分を見つめること。ひいては生きることだ。
私も昔は完全にその役になりきって没頭できなければいい役者でないなんて思い込んでいたけど、今はそうは思わない。自分が自分でなくなるなんてどうしたって無理なのだ。
というか、そこにむしろ妙があって、演技をする人間そのものが透けて見えるからこそ面白いと思う。同じ戯曲を繰り返しやっても面白いのは、何度演じても、同じ瞬間が一度たりともないから(同じ人間が同じ役を何回やってもその時の空気・湿度・体調全部が影響して違うコンディションや考え方になるから)。
役に集中できなくても、そういう自分を認めること。諦めるのではなく認める。気分が乗らなくても、やる気が出なくても、そういう自分を認める。
まず楽にならないと演技はできない。
最近私は「認める」ことを覚えた。
人とうまく接せられない自分を認める。性格の悪い自分を認める。
絶対に自分を責めない。自分の過失は反省する。でも、努力や注意でどうにもならないことは、もう認めるしかない。
どうにもならないならもう認めて、さっさと次に行くしかない。起こった事実はどうにもならないんだから、まず認めて、そこからできる限りのフォローやリカバリーをすればいいだけのことだ。大事なのは自分を、そして他人を責めないこと。
昔の私は自分や他人を責めてばっかりいたなあと思う。でももう責める時間もなくなった。
木下順二の『蛙昇天』という戯曲にこういう台詞がある。
「…きみは、きみは実にいい奴だねえ。本当に僕のことを思ってくれてる。しかし…しかしどうにもならないんだよ。いくらきみが僕のことを思ってくれたって、その好意は、そのきみの善意は、ただそれだけでとまっちゃう。それ以上どうにもならないんだ。どうしたらいいんだろうねえ。…」
私が読んだ限りだけど、私はこの台詞の本質が本当によくわかる。胸にスカーンと突き刺さる。
もう死んでしまおうか、という気持ちになったとき、私には優しくしてくれる人が何人かいた。それがとてもありがたかったんだけど、でも同時に私は、皆が私に優しくしてくれることがそれ以上にはならないことも痛いほど分かっていた。自分に起こったことを最終的にどうにかするのは自分だ。人がどれだけ優しくしても気遣ってくれても、それ以上のことは起こらないのだ。でも本当にありがたいのだ。でもそれは根本的な解決にはならないのだ。ちなみに、この台詞を発した登場人物はこのあと自殺してしまう。
だけど私は今ならこういう気持ちも認める。そういうものだ、と割り切る。そこで立ち止まっていても何も変わりようはない。他人に、世界に期待してもしょうがない。心の裏表考えていることが全て分かるのは自分という人間だけだ。私はそれだけでもかなりありがたいことだと思う。こんなに世界や人間のことが分からないのに、唯一自分のことだけは外からではなく内部から見つめることが許されているのだから。