友人との再会
10年以上前からわたしが自分で自分を解放してきた過程をずっと見ていた友人と会った。
自分に退屈し、行きづまり、野垂れ死にを覚悟してすべてを放棄し、自我を破壊して再構築してきたプロセスは、今になってみれば苦しみでも何でもなくおもしろい経過だった。
友人から「この人は死んでしまうのではないかと感じることもあった」と聞いて、自分がそんな風に見えていたことを初めて知った。そして「あなたは逞しい(逞しくなった)」と言われた。
わたしがそれまで無意識に信じこんでいた自分という物語を徹底的に破壊し再構築するのにふさわしい環境に運ばれたのは、運がよかったからだけでなく、わたしが常に余白を残し、そこに流れ込んでくる違和や未知に対して自分を開いていたからだと思う。
物質的存在は環境から大いに影響を受けている。どれだけ強い信念を持っていても、身を置く場所や社会からの影響を完全に無くすことはできない。むしろ、信念が強ければ強いほど、抗い闘わねばならない機会は増す。そう思うと、わたしは野垂れ死にを決意した時点で闘うことをやめたのかもしれない。
闘うことをやめ、社会的に生き延びることをあきらめて、自分を痛めつけることからは一切手を離したら、闘う必要のない環境に運ばれた。そこで、それまでの自分がことごとく破壊され、まったくのアウトサイダーとして自分を再構築することになった。
母語ではない言語で生活せざるを得なくなったことの影響は大きかった。無意識的に延々と垂れ流せてしまう母語ではなく、常に意識的にならざるを得ない言語で生活しなければならない環境に身をおいたことによって、わたしの思考は激変した。主格と目的が明確になり、思考も言葉もシンプルになった。
友人からも「語る言葉が以前よりシンプルでロジカルになった」と言われた。自分でもそれは自覚しているし、語る言葉が自分(人格)を作るということを実感している。過去や未来といった物語ではなく、今ここにある事実に自ずとフォーカスするようになったのは、この変化の副産物かもしれない。
今ここにある事実にフォーカスしていると自ずと逞しくなるのだろう。エネルギーを余分に消耗することもないし、やってきては過ぎていく感情を抑圧したり握りしめたりすることもない。つまり、無自覚的な言葉そして物語にとらわれることがない。物語が作りたければ、作品として自覚的に創作すればいい。
最近は言いたいこともあまりなくて、ツイートもめっきり減った。自分語りが不要になった。誰かに何かを伝えたいという欲求も薄れ、他者の反応を必要としなくなった。自分で自分に満足している。他者を含む自分以外のあらゆる外界を変えようとしなくなった。単に飽きて興味がなくなったのだろう。