シャニアニはプロデューサーの視点で見れたらきっと面白いよね。
シャニアニは自分の中で神アニメになりました。
とはいえ、自分自身は批評酷評も受け入れるスタンスでいたいと思うし、なにより最初は自分も否定的な感想を持ち合わせていた。他の人は良かった点、良くなかった点、どう思っているのだろう?と感想を見たりしていると、良かった点は素直に受け止められるし、良くなかった点も一理あるな、というように思えた。
ただし特に、否定的な感想で多かったのだが、自分は到底受け入れ難かったものがある。「アイドルの顔面を一つずつアップしていく」「Bメロで回想が多い」という点。これは自分自身にとってはとても気に入っていた部分だったので、どうしても悪かった点として納得できない。この描写があることによって、アイドル1人ひとりが抱えている感情が伝わってくる。今でどのようなことがあって成長してきて、これから起こることへどんな期待を抱えているのか、全員まとめてではなく、一人ひとりにとってとても大切な感情が伝わってくる大切な描写だと考えているからだ。それが単なる尺稼ぎだのと、ステージをもっと見たかっただのというふうに否定されることはとても受け入れられない。まあ確かに、ステージはもっと見たかったけど。てかシャニソンに任せれば…いや、映画館の環境で観たいよな。
そこで考えた。こういう価値観の差異はどういうことが原因で起こるのかと。尺稼ぎ、というのはもっと自分が感動するストーリーをその分期待していたのではないか。ステージをもっと見たかった、というのは自分が楽しめるパフォーマンスをもっと見たかったからではないか。ここで気づいた。きっとこの人たちは自分自身がアイドルに心動かされるのを期待しているだけで、アイドル1人ひとりが抱えている感情を大切にしようという気持ちはそんなにないのかな?と。
それ自体は別に不自然なことではない。テレビの前やライブの観客席で座ってパフォーマンスを見る観客は、自分が楽しむためにそれを見ているのであって、演者一人ひとりの気持ちなど知る由もない。だけどそれは、やはり観客の視点だ。これまでアイドルを支えてきて、舞台袖でアイドルの活躍を見届けるプロデューサーの視点ではないのではないか?
以前シャニアニは線ではなく四角錐で、見る視点で形が変わってくるみたいな記事を書いたが…
これ今見返したら自分でも読むの苦痛だったんだけど、まとめると
シャニアニの評価は見方で変わる。制作側は点ではなく線になるストーリーを描きたかったようだが、実際に出来上がったのは見る方向によって見え方の変わる四角錐だったのではないか。空間図形は難しいので人によって捉え方は変わる。それよりも点を大きくして、ビッグな玉の方を作った方がどっから見ても形がわかりやすかったんじゃない?
みたいなすごく抽象的なことを書いてます。これもなんかよくわかんねえな。
まさにこれじゃないかと感じた。
何が?ってちゃんと当てはめると、四角錐の見え方が変わる視点の具体例が観客としての視点とプロデューサーとしての視点だということ。残念と感じる人が見てるのは、観客として見る観客席からの景色。きっと楽しんで見ている人たちは今までのアイドルの軌跡をしっかりと支えた上で、舞台裏から景色を見ている。全く異なっているものを見ているのではないだろうか。
それよりもみんなが満足するわかりやすいやり方もあったよね。ステージをド派手にするとかさ。それがビッグな玉なんじゃないっすかね。
これ蛇足だと思うけど、他にも四角錐はいろんな方向から見て四角錐だ!と気付けたり、積分の知識持ってて体積求めたりみたいなことができる人もいるよねっていうようなことも言っていたんだけど、これはそもそも難しいこと考えず直感的に楽しい!って思える人だったり、ゲームに精通して元々アイドルに詳しい人が当てはまるんじゃないかな。きっとそういう人はもっと楽しめるよね。
シャイニーカラーズそのもののコンセプトが他のアイマスよりも「プロデュース」に重きを置いているからこそ生まれてしまった価値観の相違なんだろう。きっとシャイニーカラーズのプロデューサーと同じ視点で見ることができるかどうか、楽しめるヒントはそこにあったんじゃないだろうか。しかし残念ながら、ほとんどの人はシャイニーカラーズのプロデューサーの行動理由がわからなかったり、存在理由を見出せなかったり…同じ視点に立つことができていない、ということなのだろう。