シャニアニは線ではなくて四角錐だ
シャニアニ先行上映を全て見終わった。ネットではいろいろ賛否両論されているが、シャニアニに限らずこんなふうにあれこれ言われる原因は制作の意図と観客の期待のギャップによるものではないかと考えている。自分は大してアニメ化というものに期待していなかったので、酷かった点も大体こんなもんやろと流して無理矢理満足することはできたが、たくさん期待した人ほど不満は出てくるものだと思う。不満タラタラ言ってる人に対して不快に思うかもしれないが、彼らも悪意があって言ってるのではなく、愛故の苦言なのだということは理解してあげたい。その不満を解消することに繋がるかはわからないが、制作の意図を知ることでそういったギャップを埋めることが出来るのではないだろうか。
制作側の作品に対する思いを知る機会は意外と少ない。今ではXなどで監督やプロデューサーなどが個人でアカウントを持っていたりすることもあるが、作品に対する個人的な発言はおそらく、あまりしてはいけないことになっている。公式に用意された発言の場でなければいけない。それが映画では舞台挨拶だったり、パンフレットだ。生憎舞台挨拶は日程が合わず見ることができないので、パンフレットによる発言しか拾うことができない。パンフレットは1〜3章全て揃えたので、そこから制作の意図を汲み取っていこうと考えた。
まず1章のパンフレットを読んだ。結論から言うとキャストの座談会しか載っていない。これはこれで面白く、エピソードごとの良いところとかをそれぞれ語っているが、今回知りたいのはそこではない。
2章のパンフレットを読んだ。脚本家と作詞家の座談会が載っている。作詞家もいると言うことで曲と絡めたストーリー作りが主体の話だった。2〜5話あたりの話かな。実際自分も2〜5話のそれぞれのユニットごとのストーリーと、ストーリーの曲への投影みたいなシーンがすごく好きで、1〜3章を通してもう一度見たい!と思ったのは1章だけだった。ここがシャニアニのピークだった。キャラクターの深掘りとかも、ここが1番よくできていたよなあとしみじみ思う。
ちなみに真乃のストーリーでは明確に「Catch the shiny tail」に影響されてると明言されている。
3章のパンフレットを読んだ。高山Pの座談会が載っている。ここではアニメ化にあたって譲れないポイントを2点語っていた。
1つはアイドルのパーソナルな部分、それぞれどういう考えを持っているのか、どういう風に成長していくのかを描こうとしているという点。シャニアニはやはり16人をなるべく満遍なく描いていこうとしていたのだと、これを読んで確信することができた。ミリアニと脚本家が同じなのにストーリー構成や内容が全く異なるのは、単にプロデューサーの要望に従っただけなのだろう。自分はこの方向性次第は間違っていないと思うけれど、最後の全体が一つにまとまっていくストーリーにおいてはなんというか、中途半端になってしまったなあという印象である。
2つ目はゲームでは点と点だったストーリーだが、アニメでは線にすることができたのではないかということ。なるほど、最後の一つになっていくストーリーは線を意識したのかな。そしてそれはゲームではなくアニメから出来ることだと…そこに制作の意図と観客が期待していることのギャップが潜んでいる気がする。もしかして、観客が期待していたのは線ではなくて巨大な点だったのではないか?特に担当がそれぞれいるプロデューサーにとっては、なんだかんだで自分の担当が活躍する場面を1番見たいわけですよね。僕も凛世が活躍する場面を1番見たかった。一致団結して一つのストーリーというなら満遍なく映すコンセプトは止めるべきだったんだ。短い12話のアニメでいいとこ取りは不可能だ。中途半端にユニットを立たせて、中途半端に一つにまとめていくから結局納得されない出来になってしまった。それだったらもっと担当を輝かせてくれ!と巨大な点を求めるような不満が出るわけですよ。
まあいろいろ言ったけど、僕はこのアニメ普通に好きですよ。ただいろんな期待や見方があって、抱える感情はさまざまなんだろうなあとは思う。このアニメは線にはなれなかった。ユニットごとに立たせるエピソード、これは例えるならXY平面でそれぞれ独立した点。結ぶと四角形になる。最後のストーリーはZ軸が追加されて上へ羽ばたき上昇していく点P。全ての点を結ぶと四角錐になる。そう、このアニメは四角錐だ。
四角錐は難しい。数学や空間把握が苦手だったりする人にとってはよくわからない物体だし、いろんな面から見て「これは四角錐だ!」と気づける人もいれば、表面積や体積の求め方を知っていて細かく分析して楽しめる人もいる。軽く一方向から見るだけでも見る方向によって形の印象が異なって見える。これがシャニアニなんじゃないでしょうか。