この世界は"縁"でできている
この記事はこの世界について学んだことの考察記事です。
「時間」って何でしょう。
朝太陽が昇って夕方には沈み、夜真っ暗になってまた朝太陽が昇る。
私たちは毎日時の流れに沿って生きている。
過去があって今がある、今が未来に繋がっている
以前までは単純にそういう時間の流れがあると思っていました。
↓
「過去・現在・未来」という「時間」があると思い込んでいる「自分」という意識。
過去だと思っているもの・思い出=記憶の断片
未来だと思っているもの=無数にある可能性の一つ
時間とは記憶の連鎖?
記憶=上書き保存(時々キャッシュ削除して容量減らしてない?)
人生には悩みが付き物。悩みはどうして作られる?
悩み=業(カルマ)=縁
業(カルマ)を解消するごとにまた新たな業(カルマ)が作られる
業(カルマ)と聞くと悪い方を想像してしまいますが、悪い方だけじゃなくて良い方のものも同じだと思います。
そもそも、業(カルマ)ってどうして作られるんでしょうか。
これって自分一人だけだと成立しないものですよね。
誰か他人がいて、初めて業(カルマ)が成立する。
それがご縁というもの。
縁がない人はこの世界にいない。
人は自分一人では生きていけないようになっている。
この世界を△とすると、
目的地は一番上。そこまで登ると地球外へ出る。
地下迷宮、ダンジョン。
目に見えない階段みたいなものがあるイメージ。そこから一段ずつ上がっていく。
階段は上る時があれば下りる時もある。個人差ある。
山登り。山頂の景色が見たくて今を生きている。
一番上が光だけの世界。
一番下が闇しかないところ。ここが地の底で、たぶん地獄。
地の底は闇が強い。ここの階にまではあまり光が届かない。
真ん中の上の階辺りまで行くとそれなりに光も増え始めて、やっと「ここまで来た達成感」が見え始める。
一番上の階にいる人ほど数が少ない?が下の階がとてもよく見える。
下の階にいる人々への影響力も強い。とても眩しい存在。
下の階にいる人々は数が多い。上の階がどうなっているのか全く見えない。
一番上の人がおーいこっちだよ~って声をかけて導く。
その下の人がそれを受け取ってその下の人におーいって呼びかける。
真ん中くらいの人まで届いてそれをまた下の階へ。
下の階へ…
一番下の人はそれを受け取って階段登るか受け取り拒否して引きこもるか。
一番下の階にいる人は真っ暗闇で自分自身を見失ってる。
だからこそ何をしたらいいのかもわからないし、常に欲求不満、自分が満たされていないので利己的なことしか思いつかない。
そこで階段があることに気付くか気付かないか。
ただこの階段は一人では上がれない仕組みになっている。
誰かと出会い階段を見つけて上の階に上って行けば行くほど、階段を上るためには人とのご縁が大切なことに気付く。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』と言いたいことは同じになってしまいますが、この世界はそんな感じなのだと思います。
魂は成長を求めている。この世界は経験の場。
飽きるまで経験したい。経験が終わると上の階に行く。
課題クリアーしてないと下の階にまた下りる。
一人じゃないからクリアーできる。
一人じゃないからコンティニューできる。
誰もがまず一番初めに出会うのは母親。母親なくして人生をスタートできない。
母親とはこの世界に光と闇を送り出す役目があるのかもしれない。
父親とともになって子を生み出す。母親一人だけじゃできないこと。
人は光も闇も内包する、中庸の存在。
闇を知るから光を知る。
宗教は依存心と誰かにすがりたい救われたい救ってもらいたいという他力本願を生み出すことがあって、本当の神をわからなくさせる。
本当の神はあなたの心の中にいる。
本当の意味での宗教の存在理由とは、自分の中にある光に気付くこと。
それが宗教団体の本来の在り方なんだと思う。
宗教も一つのご縁の居場所かもしれない。
この世界にあるものは全て振動する周波数を持っている。
引き合うご縁は周波数があるから。
自分の魂はおーいこっちにいるよ~と呼びかけているようなもの。
人間は受発信機。
腐れ縁はお互いに成長して一緒に階段上る仲間(同志)。
片方が片方を引っ張りあげて数段飛ばして階段上がったり、逆に片方が片方を引きずってもっとずっと下まで階段下りてしまうかもしれない。
そんな風に、一人では成し遂げられなかったことも二人、三人…と増えていけば階段を一気に上がることも、一気に下りることもできてしまう。
地下というダンジョン内で共鳴すると光も闇もどんどん広がっていく。
どちらを広げたいかはその人次第?
これは私の直感、この共鳴が今かなり強くなっている気がしてる。
以前までバラバラに動いていたのが集まってきてる感じ。
光も闇もかなり広がりやすくなっているということ。
階段数飛ばしで上がれるようになってるし、逆に真っ逆さまに落ちやすくもなっている。
『蜘蛛の糸』でお釈迦様が垂らした糸のようなものが、実際に垂れてきているような…そんな感覚。
自分軸とは自分の物語の軸(ゴール)をぶれないようにする、という意味であって、
利己的になろうと言っているわけではない。
この世界をクリアーするには、自分以外の誰かと助け合い階段を上って行くこと。利他精神のバランス。
この辺りを混同すると階段を上るどころか下りていってしまう。
井の中の蛙大海を知らず
この世界の醍醐味は成長すること。階段を上ること。
他人は鏡。自分のレベルを映し出す。他人がいるから今の自分がわかる。
我慢=我、慢心する
我慢する人は自分のことをニュートラルにきちんと見ていない。他人のこともきちんと見ることができない。
ダンジョン内には闇側のエネミー(敵)のような存在がいるが、それすらも自分。
ある意味自分と向き合えるからこそ、必要不可欠な存在。
山登りでのんびり永遠に休憩していれば永遠にゴールには辿り着けない。
エネミーに刺激を受け、「そうだ、山登り再開しよう」となる。
常に自分と向き合うことで成長する。
一人一人にできることは、自分の物語をきちんと完結させること。
その物語を読みたい人がいっぱいいるのだから。
物語の終わりがハッピーエンドになるか、バッドエンドになるか。
それはあなたの選択次第。
でも、自分自身が心の底から上出来だと。納得するような物語なら、それでいいんだと思う。
ある意味この世界は役者やってるゲームみたいなもの。
でもそこに意志を持って参加してきた魂は皆勇者だ。
誰かの可能性を否定することは自分の可能性すらも否定すること。
他人は同志。山登り仲間。否定すれば階段を見失う。
この世界は一人だけではクリアーできない仕組みになってる。
ご縁を大切にしていけば、いつの間にかゴールが見えてくる。
一心同体とはこのことを言うのかもしれない。
最終的には、みんな繋がれる。
下の階にいる人がどんな状態であっても、温かく見守ること。
その人はいつか必ず、這い上がってくるのだから。