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自らの由

何かを得ることは何かを失うことで、それは等価交換らしい。自由の裏にある孤独。不自由の裏にある一体感。どっちが良いのだろうか。人は自由を望みながら他の人との一体感を感じなければ不安に陥る。時として不自由の方が幸せであることもある。

自由に生きることは自分の存在意義すら自分で見つけることでもある。「自らの由」と言う言葉のもとに。道は決してない。自分から草叢に分け入っているのだから。時々誰かとすれ違って、少し呼び止めて、少し孤独を癒してまたお別れする。世界は狭いとは言うけれど、1人の人間にはあまりにも広い。あるものは道標となる星を天宮から一つ選び出す。自らの指針として。その先にはきっと同じ星を見ている人が居るはずだからと。星の下まで行けばやはりそこに同じ星を追いかけた人々がいて、ある人はそこで一生を過ごし、ある人は離れていく。星の名前は思想といった。所謂ところは宗教とも言われるものだ。

私は仏教を信仰しているけれど救われるとかこれっぽっちも考えていやしない。ただ、自分をこの世へ引っ張り出した大きな因果と、私の肉体を生み出した多くの先祖たちに想いを馳せるだけだ。クルクルと廻る輪廻の先人たちは何をして死んでいったのだろうかと。ときに仏教を学んでいると、いろいろ生きる上でヒントのようなものがある。やはりこの星を見出した先人たちも自由を手に入れて悩んで、一生を終えたのだと、少し嬉しくもあり、少し気の遠くなる思いもする。

一切皆苦、諸行無常の世にあって、永遠なモノはないけれど、地球の歴史を一年に換算したとき1秒に満たないような刹那の人生ですら人間にはあまりに長い。近世にあって、我々は生まれつきの自由を得たが、その時間の暇つぶしすら自らで見つけなくてはならなくなった。目を開けている間、果たしてどれほどの幸運に満たされるか。果たしてどれほどの悲哀や憤怒、嫉妬に満たされるか。頭だけが冴えて、体は鉛のように重い。生老病死が訪れるのになぜまだ足掻こうとするのか。やはり生きているからなのか。いかに体がボロボロであろうと心臓は鼓動を打ち、喉は水を欲して、腹が空腹の気を音に乗せる、身体中が「生きろ」と言っている。夢がこちらへと手招きしている。良いじゃないか。喉の渇きを水で潤し、空腹を食物で満たす。道理が通っている。精神は自由でありながら体は生命に一体感を得ている。

夜の帳が降りて、夢の招く手を緩やかに、それでも確実に取った時、動作に少しの余剰が生まれる。瞼を閉じて、ゆっくりと力を抜く。娑婆に暫しの別れを告げる。

これからもずっと歩き続けられるように。



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