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【文芸】「技術的特異点」を批評的に考察するDISCUSSION。~成田悠輔落合陽一初田龍胡~【古田更一】


古田更一web writing.

デザインの定義の難しさ

ゲーム・プロデューサー(以下GP)「グラフィック・デザイナーさん(以下GD)の文章を大変興味深く読ませていただきました!私のやっていることが広義の意味における社会のデザインをしているんだなと理解されました。しかし、デザインというジャンルがこれではなにやら定義がこれから先難しくなるぞ…っていう印象もいささか感じてしまったのが私の感想です」
GD「お読みいただきありがとうございます。あれはあくまで優れた後輩である古田更一さん(以下HK)の要点整理であって、厳密に言ってしまえばデザインとは造形的な実践があって然るべきもので、言語で解釈するよりはプロダクトを実際に見て判断するしかないよな…っていうのが実際の所感です。ただしこれを文章で説明する意義も十分にあってもちろんそれに私も大変苦労しているのが山々なのです…」
HK「いや…だからデザインを言語的に説明する記述するという行為は矛盾以外の何物でもなくて、これはデザインというアートの大衆化という行為の宿命だとも言える…
インディペンデント・キュレーター(以下IC)「そうね。キミの言う通りデザインって難しすぎると思うよ。だからこそその都度実践的に対話していくしかないんじゃないかと思う。そうすれば様々なジャンルにおける生涯教育の場が開かれていくだろうし」
ソシオロジスト(以下SL)「まあデザインというジャンルが僕が専門とする社会学と同じくして生まれた後期近代の手法であるのだから、1回性のあるアートというものを誰もが開かれた、聞こえはいいけど、大衆化されたアートというのが良くも悪くもデザインというジャンルであることは否定できない。けれども、あくまで複製技術の芸術作品でベンヤミンが看破したみたいに、1回限りに等しいアートの崇高さを近代技術で複製していくという商業デザインの可能性と限界という話を横で聞いていて感じたな…」
GD「う~ん…。しかしデザインをそう思弁的に悲観的に捉えていく作業を私は取りたくないし、実際にそういう産みの苦しみを理解しつつ私はデザインという奥の深い作業に取り組んでいますよ。実際に何度もお偉いさんのコンペで私ですら落とされたことか!(笑)」 HK「いや…、先ほどに楽観的にデザインを定義してくれたICさんと悲観的に定義してくれたSLさんは同じことを実は言っていて、対話することの楽しさと難しさっていうのがこれからのシンギュラティ時代におけるデザインの新定義じゃないんでしょうか?実際にデザイン自体がアートの大衆化であって、それが更に大衆化していくのがこれからだと定義すると、事態はこう単純に工学的に造形的に対話をしていく態度という話に収斂するとも思います。もちろん具体的な話はweb writer兼批評家の私ではなくて、皆様方にイニシェは取っていただきたいと思っております」
GP「それなら数字だと思いますよ。数字。私の会社では統計を利用したデータを一応は客観的な基準にしていますが、その数字が良くも悪くも最低限を満たす基準ということになるかと。もちろん数字というのがミソですが」
IC「う~ん…。数字こそ急進的すぎないかしら?結局のところグループワークして話していき、プレゼンの出来で判断していくしかない」
SL「私はレポートの出来だと思う。昔HKくんが提出してくれたボードリヤールと現代アートの共通項の論文は面白かった。別に授業をちゃんと聞かなくていい。ただ真剣に考えているかどうかでしょう」
GⅮ「分かりましたよ。結局のところ、客観的な基準、テストをどこかしこに備えておくのがデザインの本領という現場レベルではそういう話な気がしてきました。しかし、ここであえて強調しておきたいのは精密すぎるビジョンがなければ、デザインは回らないということです。そこは再三に渡り強調した上で、デザインにおけるなにかしらのテストが必要ということが分かりました」

ミュゼオロジーとソーシャルゲームの相違点

GP「ICさんの文章を大変興味深く読ませていただきました!私のやっていることが広義の意味における社会のミュゼオロジーをしているんだなと理解されました。本当に真の対話という言葉はもうガムシャラですが今の時代に必要だと思います(笑)」
IC「ありがとうございます。NPO的な活動もやっていて、小さいお子さんや親御さんと話すっていうのは面白くてそして一人一人千差万別ですからね。毎年に渡って入ってくる芸文の子たちの特徴も随分違くて面白いですよ」
HK「ただそこでお互いに褒め合っても面白くもないのだし、それこそ非コミュニケーションでしょう。真の対話をしたいなら相違点を語らないとならない…
GP「そうHKさんに言われるのならあくまで言われてもらうと、炎上する形の人間が良くも悪くもいるかいないでしょうね(笑)。ネットの世界には良くも悪くも数も多いしコミュニケーションが難しい相手もいる…。不躾な質問ですけど、そういう人ってどうしますか?」
IC「それは難しいでしょうね。ただ反論させていただきますけど、私は元々は哲学の美術専攻なので、良くも悪くもそこでネットで深くまで潜って対話することが真の対話というのはちょっといやかなりウソが混じっている気もします。私は別に共産主義的な考え方に肩入れする気はないけれど、右系的で資本主義的な開き直りをそこに感じてしまう…」
SL「私もそれをGPさんに感じる」
GP「その問いに関して思うのは、やはり扱っている対象の違いなのかもしれないです。ミュゼオロジーは過去の貴重な遺物を扱うある意味では理系的なジャンルだとも思っていて、良くも悪くも私の方は現代に生きる人々を相手にしている文系とも言えますよね」
HK「いや、この問題は結局のところ、美術館がほとんどオワコンしているという現状の再確認ではないか。しかし、いくら美術館が大衆にはオワコンと言っても岡本太郎やキュビズムなど取りざたしなくても、美術の重要性はやはり残ってしまうし、一部のお金持ちや頭が良い方々には以前人気のある高尚なジャンルでしょうね
IC「キミは他人事みたいに言わないでほしいけど、確かにそういう面もありますね。もちろん企業とのコラボなども協力させていただくときもあって、その時に感じる問題と同じだなと感じました。アートは本来身近にあるものだと思うし商業的にそれこそ漫画やアニメを含めて一応は通じているものもあるけれど、ゲームやSNSといった話までくるとこれはかなり難しい問題なんでしょうね。いやはや対話になり勉強になりました」
GP「それは良かった(笑)」

社会学はシンギュラティなのか

GD「この社会学に関する文章は大変興味深く読ませていただきました」
SL「ありがとうございます」
GD「現代社会の生き苦しさを更帰性近代と定義するのはなかなか直感的に刺さる気がします。特にコロナ禍後にみんながマスクをつけてしか授業をできないとなるとなおさらそれはひしひしと感じる話です」
HK「自粛するしかなかったのはその通りだけど、それこそが社会学が勝手に悲観的に躾として思い込んだ悲壮観漂う罠というテーゼをここで代入したくなりますね…」
SL「それは一理はあるかもしれないけれど…、それを言っては埒が明かないよ」
GP「私の最近の悩みは燃え尽き症候群なんですが(笑)、これなんて正に近代以降を生きる人間の悲しき精神的ダメージと言えるでしょうね(笑)」
SL「はい」
IC「身につまされる思い…」
HK「いや絶望しているフリこそが近代を延長する社会学者のモードでしょう。それこそロラン・バルドが看破したフェイクだ。そんな上部構造の政治も分かるけれど、政治には政治というわけで、シンギュラティ。ここで改めてSL教授にお聞きしたいのは、技術的飽和点、シンギュラティの問題です。コロナというのはあえて社会学にも当てはめて話すと危険社会、分業の行き過ぎた後期近代の問題ではないか?」
SL「まさしくその通りです」
HK「ではイニシアティブをGDさんに取ってもらいたのですが、テクノロジーの時代において下部構造にデザインという実践は果たしてなるのか?それとも…」
SL「いや先ほどにキミが言ったとおりにテクノロジーが社会を規定するというのはいささか早急すぎますよ。それこそ進み過ぎた社会が今回のコロナ禍を犯したと言えるし、シンギュラティは妄想の可能性も否定できませんよ」
GP「いやいや(笑)、それは現実でしょう。インターネットを前提にしたら話は大きく変わります(笑)」
GD「先ほどからお話を伺っていると良くも悪くも社会学には近代的エリートの諧謔さを感じられて、80年代に流行ったポストモダンの言説、シラケているフリに似ているように感じられますな
SL「そういうことはあるかもしれませんが、ポストモダンは完全に肯定する気はありません」
HK「だからこれはそれこそ社会学のフレームで言えば、社会決定説と技術決定説であって、ニュートンとアインシュタイン的な対立であり、どちらも正しいという話なのではないか。もちろんアインシュタインが今では主流になるのがシンギュラティのノリなのかもしれまんせんが…」
SL「私はこれ以上答える義務もないのだし答える力もありません」
GD「本人がそう言っているんだし、これでいいのだ(笑)」

技術的飽和の全容

GD「ゲームプランナーによる対話に関する熱意さと冷静さには、共通点をグラフィックデザインの業界と感じました。しかしどうなっていくんでしょうね…」
GP「どうなっていくとは…?」
GD「私みたいな古い人間からすると社会に対する信頼というのは最低限はあるわけですよ。アナタの話からはむしろ相互不信というか不信から湧き出るニヒリズムな楽観さというのを感じます。インターネットで本当の対話はできるんでしょうかね…」
HK「それはその通りで、以前に私がインタビューさせていただいた時に現代人を不信の時代だとGPさんはおっしゃっておりました。つまり、みんなが相互不信がゆえに信頼が重要になってくると…」
GP「はい」
SL「やはり後期近代の問題だ」
IC「でも、私たちが若い時代の方が社会が荒れていた気がするけど…」
SL「それは温かい証拠なんですよ。今回詳しく社会学のタームを説明できないけど、直感的にはこれもまた後期近代のシニシズムの問題なのだ」 HK「まあそうやってシュっと片づけちゃうとそれこそ社会学お決まりのシニシズムなんで(笑)、ここは楽観的に言えばシンギュラティという【楽観的なシニシズム】はシニシズムで賢いとは言えないでしょうか?社会学を【悲観的なシニシズム】と定義します(笑)」
GP「そう(笑)。そう信じたいなぁ~(笑)」
GD「大学がなくなるなどという世界の移り変わりをボクは否定する気はないよ。あくまで社会に合わせてお互いに成長しあうのがデザイナーだからね。だけど、楽観的にシンギュラティ、つまり安易にテクノロジーを礼賛するとなると職人美、デザインの価値というものは目に見えなくなってくる。それこそ極端に白痴なシニシズムだと思う
HK「だから僕は下部構造にはデザインがあると定義したいし、それにデザインがアートの商業化というそれこそ資本主義の権化のようなものであるのはGDさんが一番分かっていると思う」
GD「疲れてきました(笑)。だけど頑張ります(笑)。うん。デザイナーが辿ってきた道とゲームも同じ道を辿っているんだなって分かったよ」
GP「そうですよ(笑)」
IC「資本主義の生き着いた先の疲れというのは美術史ではよく使われる表現だからそういうことに気づかさせるアートにこそ力があるんだという話な気もする」
HK「先ほどから話を伺っていると、テクノロジーが思想になることは事実でも、もちろん今回のディスカッションでは通説的なシンギュラティのおおまかな流れをあえて飛ばす形をとったわけですけど、シンギュラティがその実、後期近代の生き着いた先の再魔術化ということがよく分かりました。結局のところ、落合陽一の言う魔法の世紀は正しかったと言える。ただしそれはあくまで過去の歴史から見ると社会学のフレームで語れる後期近代のシニシズムという近代の戦争とは違う形の大人になる物語、規律と分かりましたし、未来の目線から捉えると広義の意味までメジャー化しすぎたデザインの力がより増すことがここで理解しました。シンギュラティの上部構造は社会学が下部構想はデザインが、しかし、そこにはもう少し遊びの心を入れてもいいと思いますよ。それこそ戦争は終わり、それこそアートより洗練された数学的な結晶のデザインが様々なそこここに見いだされるでしょうから」


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