「何がわかって無いのかわかってないのがいけない・自分が陰謀論者だったら」2022年8月27日
あんまり意識してなかったけど、2022年って凄い未来っぽいな。
どう評価する、されるのが態度として良いかという話
を考えたくて。まあ、相手の話のわかる批判は受け取ってそうでないものは流せばいいんだと思うけど、そもそもそこを弁別するのってわかってない側に出来る事なのかなってのがある。
まあ、だから先生と呼ばれるものがあるんだろうけど、なかなかそういうものにアクセスし続けるのは難しい。それに普通に暮らしていて批判されたりする場面では相手も専門ではないことが多々あるから、どちらも答えがわかってなくて泥沼なことがある。
哲学に限らないけどどうも難しいのは、テストを自分で作らないといけないタイプの学習だと思う。一問一答みたいなこともやらないとって言ってる先生も居て、その通りだと思うけど、問題を作ったり見つけたりするのがまず難しいし、答えはさらに難しい。
それが出来るようになるのが大学教育の目的なのかもしれないので、修行しろということなのかもしれない。
で、そうすると、知識と人格をわけたり、批判された時に「思うから」ではなくて根拠同士を比べるために、自分の知識について何をどう理解して、その理解はどのようにして得たのかを知っておくことが良いと思う。ただ、滅茶苦茶なコストがかかるような気がしないでもない。
実践的にはどうすれば良いのかな。
まず本読んだときにどう読んだかメモが必要だよな。
ある程度はやっているけどかなり荒い。でも当然全部精読するわけにはいかない。
思うに、そんなこと考えてないで今の読み方に足りないと思う所を、『独学大全』の読み方取り入れてみたりすれば良いのでは。あとで問題が起きたらやり方を直せば良いんで。
具体的にはもう少し考えてみる。
陰謀論者、奇説信奉者の場合
なんかどうも、誤った情報を流してしまう事の難しさもあるけど、どうせ世界の中心的な話題では無いし(大きく影響があれば別だけど)、わかっている人は読まない+読んだとしてもこちらの誤りがわかるからそんなに問題ではないので、恐れ過ぎるのもまた違うのかもしれない。わからない人を誤解させるのは怖いけど、自分より理解が浅い人間がどれだけいるかってのもあるし、堂々とし過ぎなければ(あるいは堂々としていてもわかってない事をお知らせしていれば)別に良いのかもしれない。
普通に考えて専門的な訓練を受けている人間、かつ進行形で関わっている人の言う事を重視するのは当たり前で、著作があってもそれ以外の人のものはそこまで重視されないんだから、専門家の職業倫理みたいなものを意識しすぎて自分の学習の機会を逸するのはやりすぎ。と普通に言えれば良かったんだけど。陰謀論とか散々なこともあるから……。
うーん、もし自分が傍から見て陰謀論者で、自分でそれに気がついていなかったとしたら、自分の信念を公開することとしない事のどちらが良いのかな。公開した方が訂正の可能性は上がると一応言えそう。デメリットとしては他人を巻き込んで間違えてしまったり、それで大きな失敗をさせてしまったりというのはあるか。それに訂正されても自分がそれを受け入れられない場合もあるだろうし。
わからんな。
これが普通の陰謀論・奇説だったら、それが陰謀論や奇説であると見られている限り多くの人にとっては批判対象だから、誤りのケースを提供する事になるかもしれない。でも騙される人もいるよな。騙されたくない。うーん。
そうでなくて、現代(2020年)という時代に縛られた誤った言説も奴隷制と同じような意味でありはすると思う。正直それにもあまり加担したくない。
無理なのでは。
無理かもしれん。
結局絶対誤っている可能性はあるし、多分真理ではないから、いわゆる情報リテラシー的に言われる普通の事を気を付けるのが大事かも。
最終審級の問題
その上で、最終的に批判を受け入れるか否かも批判されている当人自身が判断するという事も変えられないから、それも普通にやっていくしかないかな。内心の法廷、裁判官も検察官も弁護士も最終的には自分だから終わってるんだよな。
まあ、あまり自分の主張に肩入れしすぎない、自分の頭に疑いを持つことが良いのかもしれない……がやっぱりそれがどこまで可能かはわからない。
でもまあ、一応社会は自分が完全に奇説を振りまくようになっても最終的には修正掛けてくれる……うーん、歴史考えるとそうも言えんか。
こわいね。
何というか、最終的には確かに100%は信頼できないけど、少なくとも現実程度にはまともだから、大丈夫と言うか、大丈夫なのかな。うーん。まあ、これが現状ですということか。仕方ない。
どちらかと言うと社会の方より自分が心配なんだけど(これから独裁者みたいなのになるルートは薄いと思うので)、頑張りたい。
やっぱり書いて時間置いて客観視したり、それも含めて他人の批判を聞くということしかないかなあ。
何で普通は狂人(という言葉も難しいが)だらけにならないのか良くわからないけど、まあそれはそれが普通という言葉の意味だからそうか。普通の人間の典型的な思考法や誤り方は、それが一般的な人間の思考法やその誤り方であるというだけで、いわゆる批判的思考・科学的思考なんかと言われる理想的なものであるわけでは無い。”この”推論みたいなものしか知らないし、多分それ以外は出来ないけど、”この”推論がまともであるとは言いにくいな。まあ、それしか人間の推論を知らないのにそれ以上のものを想定するのはおかしい気もする。いやうーん、まともさの基準がいわゆる普通の推論の方にあるから、一般的な推論がまともであるとは言えるのか。
なんかこの辺の話はどこかにある気がする。
人の頭の中見たこと無いし、見ても脳みそがあるだけで人の推論過程みたいなものが見えるわけでは無いから意味ないんだけど、どうやって人間が、自分がものを考えているのか良くわからない。
算数の指導の例みたいなのが良くあるけど、もう少し難しいものでも、例えば音読すると誤りに気付きやすいみたいなものは、改めて思うとかなり気持ち悪い。経験的にそうであるってことを気持ち悪いと思う理由は良くわからないけど、”普通”そうであるがその程度のものでしかない(その程度のものではある)のが少し怖いような感覚なのかもしれない。
起きた後から夢を評価する
最後に起きたのが現実である(覚めない夢は現実なので)ことになる夢とかと同じで、事後的に正しいことになるのかもしれない。
いや、正しいとされるものが確定した後から見ればその時も間違っていたんだけど。うーん。
他人からの評価をどう受け取るかも難しい。自分が考える位置と合っていればそれが強化されるけど、自他それぞれで評価がバラバラなことも多いし、どちらかが過大過小ということもあれば、両方的はずれなこともありえる。
結局それも本当はあとからしかわからないし、特に人生や歴史だとあとから意味を見いだせるようになることも多い。
でもなんで後から(多分1000年後とかではなく2~30年後)の評価を特権的なものにするのかはわからない。
いやまあ、寿命もあるしその辺を答え合わせに設定したがるからか。
占いに意味を持たせる
占いは全く信じていないけど、占いの結果によって何かに注意深くなって危機を避けられたり、意味というか実際的な価値はあると思う。(占いと言っても星座占い的な。本格的なのはものによる。)
なんかこの、一見無意味や効果のなさそうなものに、やってると意味や効果を見出すことが出来るタイプの話が苦手というか、難しい。
発言の価値
なんか当然のことではあるんだけど、別で業績のある人の発言が全部重んじられる訳では無いし、ネットとかだと特になんでこの人がこんな扱い(下に)なんだと思うことがある。まあ、価値ってよくわからんね。
目次もめちゃくちゃだけどまあ日記だしそれは良い。
日記を書き終えたら基本的に一日の区切りだけど、実際はもう少し生きるわけで、その時間は余白という感じがする。
経験したこともの
記事
書籍
あらゐけいいち『日常』1~10巻
ジャンプエース何とかで無料だったので。漫画サイトやアプリ、もうなんもわからない。無理なのはわかってるけど、ポイントカードと同じで一つになって欲しい。
アニメは見た事あって、かなり好きな部類ではある。気が抜けて楽しめる。三巻の説明とかに「ポストモダンギャグ」とあるけど、全然意味がわからなかった。途中まで理科の先生(中村先生?)を男性だと思っていた。
日常126で米を鼻から出す回がある。昔風邪ひいた時か何か、鼻から卵焼きを出したことがあるのを思い出した。リボンの子(安中さん)が結構好きかも。(pixivを張るかニコニコを張るか少し悩んだ。違いがあまりわからない。)
牛って4WDか???
人間は空冷か以来の難問かも。いや、タイヤないし違うか。
ギャグマンガだしストーリーがそこまで無いけど、ストーリーがそこまで無くても面白いものは面白いんだな。
ところで日常って面白いのに何で続かなかったんだろう。
ルソー『エミール』岩波文庫。
読み終えてはいない。読み終えたのものはブックメーターで記録しているけど、少し読んだとか読みかけみたいなのを記録する場が無かったのでここで。
動画
その他
経験したいもの
福嶋(2022)『思考の庭のつくりかた はじめての人文学ガイド』星海社新書。
星海社新書って最近よく見る気がするな。
「リコリス・リコイル」
アニメ。『デスニードラウンド』の人が原案らしい。
『ベン・トー』
同人のもの。