20221228-考えの深さの差異

帰省してたらまた日付が回っていた。
家族との時間は大切にしたいものだ。

さて、実家に帰ると支度などを全部任せてゆっくり湯船に浸かるだけの時間を取る事ができる。両親には常に感謝。そしてこの時間は、大抵の場合なにか取り留めのないことを考えるのに1番適した時間だとされている。根拠は無い

今日考えていたのは思考のプロセスについて。私が持ってきた寝巻きの膝部分が破れていた事に対して親に質問されたのだが、その時私は「ベッドの横のところにスマホを寝ながら見れるようにモニターアームを付けていて、それに何かの拍子で引っかかった」と答えた。それに対し、親は「あんたは説明が上手いのか下手なのかわからんね、いちいち少しくどい」と返した。

おそらく親としては「何かに引っかかって破れた」くらいの説明で充分だと思っていたのだろう。ここの違いについてぼぅっと考えていた。

私と親の説明の違いは、引っかかった何かに対する説明を入れているかどうかという点にある。もっと細かく考えると、「どうして寝巻きのズボンが破れていたの?」という質問に対する一番簡潔な答えは「何かに引っかかって破れた」であり、これが親の求めていた説明だ。しかし私は、この「何か」という不確定な要素が文中に登場することを許せなかった。できる限りの正確な情報を与えたい、バックボーンまでを共有したいと思ったのだ。だからこそ、自分の中で「引っかかったのは何か?」という質問を新たに作り出し、その内容を追加する形で答えてしまったのだ。

どっちが悪いとかではないのだろうが、これは状況や感触を読み込めなかった自分のコミュニケーションエラーだと感じてしまった。相手がどこまでの回答を求めているかというのは、相手の雰囲気から察することができるものだと思っているからだ。全部説明しなければ気が済まない自分の落ち度だなと反省。

また別の考えとして、もしかして今回の例はIQが違うと話が通じなくなるみたいな話の典型例だったのかもしれないとも考えた。私はこの質問をされた時引っかかった何かに疑問を持つということを期待していたのかもしれない。しかし親側はそこまでの考えに至らなかった、という考えもできなくはないのかなと。正直なところ学歴はともかくIQで親に勝っているとは生き方を見ていると到底思えないのでこれは戯言と思って流してくれて構わない。

ちなみに破れたズボンを履くくらいならと適当にその辺にあったズボンを履き、布団の中でこの文章を打っていた。スマホだと少し文章が書きづらいように思える。フリック入力よりもキーボードに慣れてしまったか、と少し感慨深い。

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