【短編小説】 ホテルの部屋に消えた指輪
冬の曇り空が広がる水曜日の午後、麻衣は駅前の小さなカフェで温かいミルクティーをすすりながら、胸の奥にわずかな高揚感と罪悪感を同時に抱えていた。夫・誠二が会社の出張で地方へ向かったこの二日間、彼女にはひそかな約束があった。
相手は和也。大学時代のサークル仲間であり、去年同窓会で再会して以来、ふとした流れで二人の関係は「ただの友人」以上になっていた。和也にも妻がいる。ごく普通のサラリーマン家庭、子どもはまだいないらしい。結局、二人は互いの家庭生活の隙間を縫うようにして、こうして時々、駅前のビジネスホテルで落ち合う関係になった。
部屋はビジネスホテルにしては清潔で、壁紙も淡いクリーム色で統一されている。フロントで鍵を受け取り、エレベーターを上がり、部屋に入ると和也は麻衣を抱き寄せ、ほんの短い唇の逢瀬を交わした。部屋には暖房がよく効いており、窓の外には灰色の空が見える。
「今日は長くはいられないんだ」
そう言う和也の表情はどこか固い。
「仕事が立て込んでて。17時には出ないとまずい」
麻衣はうなずいた。夫がいないこのタイミングを計ってやっと会えたというのに、ゆっくりはできない。そんな不満は喉元まで来ていたが、ここは大人の対応をするべきだ。彼だって自由になる時間は限られている。
麻衣は、ベッドサイドの小さなテーブルに自分のバッグを下ろした。バッグから携帯を取り出し、時刻を確認する。その際、いつものクセで左手を見下ろす。指には結婚指輪がはまっている。和也と会うとき、彼女はいつも指輪を外している。自分を裏切る行為の証を目にするのが嫌で、そして和也に「他の男」の存在を見せつける無粋さを避けたかった。
今日もそうしようと思った。麻衣は指輪を抜き、ナイトテーブルの引き出しを開け、中に入れようとした。そのとき、和也がシャワーを浴びると告げてバスルームへと消えた。シャワーの音が微かに聞こえる中、麻衣はリングを手の中で転がす。細いプラチナのバンドに刻まれた誠二との結婚記念日。それを見つめると、胸がちくりと痛む。
外してしまえばこっちのものだ。後ろめたさを一瞬振り払うように、麻衣は指輪を引き出しの内側へそっと置いた。その上から、ホテル備え付けのメモ帳を軽くかぶせる。視界から消してしまえば、せめてこの数時間は罪悪感を希薄にできるかもしれない。
シャワーの音が止むと、和也は髪をタオルで拭きながら出てきた。半袖シャツとジーンズという軽装の彼を、麻衣はベッドの上から見上げる。「ちょっと寒いね」と言うと、和也は暖房の設定温度を上げた。
「ねぇ、今日、少しイライラしてない?」
麻衣は彼の顔色をうかがうように尋ねる。和也は苦笑いを浮かべた。
「んー、仕事でね。部下がミスしたり、取引先が急に条件変えたりさ。ほんとはもっと君とゆっくりしたいけど、気が焦っちゃってるんだよ」
麻衣はそんな彼の疲れをほぐすように、ベッドに呼び寄せた。短い時間でも、少しでもお互いを確かめ合うことで安らぎが得られる。彼女はそう信じていた。
時計は15時を回ったあたり。和也は先にスーツケースから出張資料をまとめ始め、麻衣は洗面所で顔を洗い、髪を整える。たとえ短い逢瀬でも、少しでも綺麗でいたいと思う。鏡の向こうには、30代半ばの彼女自身が映る。ほんのわずかに刻まれ始めた目尻のシワ、それでもまだ女性らしい艶やかさが残っている、と自分に言い聞かせる。
部屋に戻ると、和也はテレビをつけてニュースを眺めている。何気ない雑談を交わし、あとは黙って過ぎる時間も心地よい。
そろそろ16時に近づいた頃、和也が立ち上がった。
「悪い、先に出るよ。あんまり長居すると怪しまれそうだし、資料も整理しないとね」
麻衣は少し淋しかったが、気持ちよく送り出すことにした。
「うん、わかった。私もあとで出るわ。少しだけここで休んでからね」
ドアが閉まり、再び静かになった室内。麻衣はベッドに身を投げ出し、天井を見つめた。
「また、会えるよね」
声にならない独り言をつぶやく。夫には言えない秘密。和也のことを深く思い詰めているわけではないけれど、刺激のない日常に欲したほんの一滴のスパイスが、今の関係だった。
さて、そろそろ帰ろうか、と彼女は腰を上げる。パジャマ代わりに着替えていた薄手のカーディガンを脱ぎ、外出用のコートに袖を通した。バッグを手に取り、最後に忘れ物がないか確かめる。スマホ、財布、口紅、ハンドクリーム、どれもある。
そして、一番大切なもの。結婚指輪。
「あれ?」
麻衣はナイトテーブルの引き出しを開けて目を凝らした。そこには、メモ帳はあるが、指輪がない。
「嘘でしょ……?」
ひっくり返しても、メモ帳を一枚一枚めくっても、どこにもない。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。和也が出るときに、間違えて持っていくなんてことはないだろう。彼は指輪には触れていないはずだ。それに、掃除が入るにはまだ早い。
考えられる可能性は、彼女自身がどこか別の場所に置いたか、あるいは……
麻衣の心臓がドキドキと高鳴る。指輪を失くしたなんて、夫に知られたらどう説明すればいい? あの指輪は誠二が結婚10年目の記念に贈ってくれた特注品だ。ブランドものではないが、二人の思い出が詰まっている。何より、指輪がなければ、彼女がここで何をしていたか薄々勘づかれてしまうかもしれない。
「困った……」
麻衣は部屋の隅々まで探し始める。ベッド下、カーテンの裏、椅子の背後、バスルームの床、洗面台の下……。
しかし、どこにもない。
焦りの中、窓の外を見ると、ホテルの向かいにあるビルのガラス窓が雪色の空を反射している。まるで彼女を嘲笑うように。
もう一度、引き出しの中を探し、床を這うように確認しても指輪は見つからない。そうこうするうちに時間は16時半。もうすぐ誠二から電話が来るかもしれない。
このまま帰宅して、指輪なしで家に戻ったら何を言えばいい?「落とした」「泥棒にあった」「指に合わなくなったから修理に出した」……どれも怪しすぎる。
「どうしよう、どうしよう……」
そのとき、部屋のチャイムが鳴った。
「はい?」
扉の向こうから聞こえたのは、ホテルスタッフと思われる男性の声だった。
「すみません、お部屋で何かお探しではないですか?」
麻衣はぎくりとした。まるで彼女が指輪を探しているのを見透かしたかのようなタイミングで、スタッフが訪ねてきたのだ。
「え、あ、いえ…」と咄嗟に否定するも、その声は震えている。それに、スタッフがこんな時間に訪ねてくる理由がわからない。
ドアスコープから覗くと、そこには30代半ばくらいのスーツ姿の男性が立っていた。フロントスタッフにしてはラフな印象だが、胸元にホテルのバッジのようなものがついている。
仕方なく扉を開けると、男性はにこやかに微笑んだ。
「先ほど、清掃スタッフが廊下で落し物を拾いましてね。もしかしてお客様のものでしょうか、と」
落とし物?まさか、それが指輪?麻衣は期待に胸を膨らませつつも、警戒心を抱いた。
「どんなものか伺っても?」
麻衣の問いに、スタッフは笑顔を崩さない。
「貴金属のようで、小さなシルバーのリングが落ちていたとのことです。お心当たりは?」
来た!これしかない。麻衣は安堵の息をつく。
「あ、はい、それ私のかもしれません。どこで拾われたんでしょうか?」 「階段の踊り場です。そちらに落ちていたとの報告でした」
階段の踊り場?そんなところに指輪を落とした記憶はない。おかしい。麻衣は首を傾げたが、とにかく指輪が戻るなら万々歳だった。
「ありがとうございます。それ、受け取れますか?」
男性はわずかにため息をつくように、声を低めた。
「もちろんお返ししたいところですが、実は少々困ったことがありましてね」
困ったこと?麻衣は嫌な胸騒ぎを感じた。
「どういうことですか?」
男性はちらりと廊下の左右を見渡し、一歩室内へ踏み込んできた。
「ちょっとお時間よろしいですか。外だと他の宿泊客も通りますので…」
麻衣は戸惑った。ほとんど見ず知らずの男を部屋に入れるのは気が引けるが、指輪が戻るなら仕方ない。扉を閉め、チェーンをかけず、いつでも外に逃げられるよう気を配った。
男性はゆっくりと室内を見回し、低い声で言った。
「実は、この指輪を拾った清掃係が、届け出る前に一度フロントで私に相談したんです。どうやら、この指輪には特別な刻印があるそうで」
刻印――結婚記念日のことだろうか。麻衣は唾を飲み込む。
「それがどうかしましたか?」
「ええ、実は今日、当ホテルにはとある方がこっそり人を尾行していて…その方が、指輪の特徴を言い当てたんです」
尾行?まるで探偵か何かだろうか。麻衣は頭の中が混乱してくる。
「誰がそんなことを?」
男性は口元に笑みを浮かべたが、その笑顔は今まで以上に不気味だった。
「いや、名前は存じませんが、その方いわく、この指輪は『ある既婚女性が不正な行為に使っている証拠』らしいんですよね」
「不正な行為…?」麻衣は息が詰まる思いだった。まさか、誰かが自分の不倫現場を追っていた?
「この指輪を返して差し上げたいんですが、その方が『所有者に一度、話がしたい』と仰っていましてね。私としても困っているんです。正直、関わりたくはないんですが、見てしまったんですよ、その方があなたを尾行しているところを」
麻衣は声を失った。夫の部下、あるいは和也の知り合い、もしくは探偵かもしれない。いずれにせよ、このままでは指輪を返してもらうには、その「尾行者」との接触は避けられないようだった。
「お返しする代わりに、その人との接触の場に立ち会ってほしい。まあ、私も立場上、トラブルは避けたいんですが、拾ったものを勝手に廃棄するわけにもいかず…」
麻衣は考える。ここで断れば、指輪は戻らない。しかし、その人物と接触すれば秘密が露見するかもしれない。どうする?
ふと携帯を見ると、誠二からの着信履歴があった。もう自宅に戻る時間帯かもしれない。ここで時間をかければかけるほど、帰宅後に指輪がないことを怪しまれる。
「もし、その人に会ったら、ちゃんと指輪は返してくれるんですよね?」
男性は大仰にうなずいた。
「ええ、もちろん。私は何も悪事をたくらんでいるわけではありません。指輪もここにあります」
そう言って、ポケットから小さなビニール袋を取り出し、中にプラチナのリングを見せた。間違いなく麻衣の結婚指輪だ。
「ただ、その人が話を終えたら返す、という条件なんです」
麻衣は歯を噛んだ。逃げ場はない。
「わかりました。その人って、今どこに?」
男性は部屋の電話機を手に取ると、フロントらしき番号へダイヤルを回した。
「今、お呼びしますね」
そう言って、短く言葉を交わした後、受話器を置く。
「では、少しお待ちください。おそらく数分でこちらへ来るでしょう」
麻衣は居心地の悪い沈黙の中、床に視線を落とす。夫の誠二を裏切り、和也とのひそかな時間を楽しんだはずが、今は何重もの不安が押し寄せている。
「そういえば」男性が何気なく言った。「あなた、外した指輪をなぜ引き出しに隠していたんです?少し気になりましてね」
麻衣は返事に詰まり、喉が乾くのを感じた。どう言い繕えばいい?「ただ指輪を外していただけ」「手がむくんでいて痛かったから」そんな言い訳が通じるか?
「いえ、深い意味は…」
そう言おうとした瞬間、ノック音が響く。
「来たみたいですね」男性がドアに向かう。
麻衣は鼓動が強くなり、手汗で湿った掌を擦り合わせる。
ドアが開く。その向こうに立っていたのは、黒いコートに身を包んだ中年の女性――見覚えがない。その目は冷ややかで、何かを知っている者の瞳だった。
麻衣は覚悟を決める。
「あなた、何者ですか?」
女性は静かに微笑み、麻衣の手元にあるはずのない結婚指輪を指差した。
「あなたが思っているより、世の中には見ている人がいるんですよ」
この瞬間、麻衣は自分が踏み込んだ危うい世界が、想像以上に複雑な網の目で張り巡らされていることを悟ったのだった。
暗いホテルの一室で、結婚指輪が取り戻されるその時、彼女の秘密はどこまで守られるのだろうか。
静かに閉ざされたドアが、重く彼女の未来を塞いでいた。