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【短編小説】 溶けていく氷、揺らめく視線

 玄関先で、夫はいつものように無言で靴を履く。彼の背中は、ここ数年、私が知っているはずの人間から遠ざかるように冷えきっていた。夫は朝食もろくに口にせず、スマートフォンの画面をちらりと眺めてから、無言のまま外へ出る。

 見送る私の声は、いつからかやせ細ってしまった。まるで、氷がゆっくりと溶けていく過程を黙って見つめているかのように。子どもは小学生になり、家庭は一応の安定を保っている。でも、胸の奥にできた小さな穴は、日に日に冷えた風を通しているようだった。

 私は主婦として日々を送っている。家事、子どもの世話、近所付き合い、どれも淡々とこなしているつもりだ。でも、なぜか空虚さが抜けない。夫は仕事に追われ、帰宅時間も不規則。夫婦間での会話は行事報告のような定型文に終始し、触れ合いもなくなり、いつしか私自身が「妻」という肩書きの動く看板でしかなくなっているような気がした。

 そんな折、私は近所のカフェで、ある男性と出会う。

 そこは新しくできた小さなカフェで、子どもが学校へ行った後、家事をひと通り終わらせた時間帯に、私は一人で足を運ぶようになっていた。小さな丸いテーブル、琥珀色の照明、ガラス張りの店内には外の日差しが柔らかく注ぎ込む。カフェラテをすすりながら、ぼんやりと店内を見回していたとき、は入ってきた。

 長めの前髪を軽く撫でつけ、細身のジャケットを着た彼は、私より少し年下に見えた。深みのあるダークグリーンのシャツが印象的で、その瞳は何かを問いかけるような柔和な光を宿していた。

 「ここ、よろしいですか?」と、彼は私の斜め向かいの席を指さした。店内は混んでいて、空いている席は私の近くしかなかった。

 「あ、どうぞ。」と私は軽く会釈する。何気ない一言だったが、その瞬間、私の中の空洞が、ふと疼いたような気がした。

 彼が頼んだのはハンドドリップのコーヒー。ゆっくり時間をかけて抽出されるその過程を見つめる彼の横顔は、どこか浮世離れしていて、私よりもずっと自由で、透き通った存在に思えた。私たちは最初、互いに会釈を交わす程度だったが、数度カフェで顔を合わせるうちに、自然と「また会いましたね」から「最近お天気がいいですね」へと、言葉がいくつか紡がれていった。

 彼は一人でフリーランスの仕事をしており、このカフェを作業場代わりに使っているらしかった。ノートパソコンを開いて、時折画面を見やる横顔。その合間に、私とほんの少しの雑談を交わす。私よりも世間知らずなわけではなく、むしろ話してみると、彼は優しいが芯があり、感情を急にぶつけてくることもない。夫にはない穏やかな余白が、彼にはあった。

 ある日、私はついに名前を交換した。私の「香織」という響きを、彼――「秋山」は繰り返し、微笑みながら「いい名前ですね」とこぼした。その時、何かのスイッチが入ったように、私の胸の中で冷たく静かに眠っていた氷が、じわりと溶け始めたのを感じた。

 主婦としての日常は相変わらず続いている。朝には子どもを送り出し、洗濯物を干し、近所のスーパーで夕飯の買い出し。だが、その合間に私は決まってカフェへ立ち寄る。秋山は必ずしも毎日いるわけではないが、彼がいる日には必ず互いの近況を少しだけ交換する。特別なことは何もない。それなのに、彼と言葉を交わすだけで、私の血は温かくなる

 夫には言えない小さな秘密が、心の中に育ち始める。カフェで秋山と出会うたび、私の視線は揺らめき、頭の中であり得ない妄想が広がっていく。もし、彼の隣に座って、このまま話し続けたらどうなるのだろう。もし、手の甲に触れたら。もし、唇を重ねたら――そんなあり得ない想像が、私の中で溶けた氷水のようにじわじわと広がっていく。

 初めて二人だけで時間を過ごしたのは、子どもが遠足で家に戻らない日だった。いつものカフェではなく、少し離れた静かな公園のベンチで話をした。しとやかな風が私たちの髪を揺らし、周囲には散歩をする老夫婦やジョギングをする人々がいた。何でもないような会話をしているうち、秋山は私の手元の結婚指輪に目を留め、「ご結婚されてるんですね」と、少し静かに言った。

 その一言は、まるで氷にひびが入るような瞬間だった。私は頷き、何か言わなければと思ったが、口が動かない。彼は責めるわけでもなく、ただ穏やかに、けれど確かにその事実を飲み込んでいる様子だった。それ以来、私たちは暗黙のうちに「既婚」であることを前提に、互いに近づいているように感じてしまう。世間的には、私は明らかに「不倫」という禁忌の領域を覗いている。それはわかっている。わかっているけれど、彼といるときは呼吸が楽で、体が軽い。夫と向き合うときに感じる重苦しさが、嘘のように消えるのだ。

 ある日、夫の帰りがまた大幅に遅れた夜、私は寝室の窓辺で夜空を眺めながら、スマートフォンを握りしめていた。秋山とは連絡先を交換していない。いや、本当は交換してしまおうかと何度も迷ったが、いつも踏み出せずにいた。しかし、今日、あのカフェで秋山から提案があったのだ。

 「もし、もう少し話したくなったら…」と、彼は携帯電話の番号を書いたメモを私の手元に置いていった。私はそのメモをまだバッグの奥にしまい込んでいる。あの番号に連絡をすれば、後戻りはできないかもしれない。それでも、この虚ろな日々に淡い色彩を与えるに触れたい気持ちは増す一方だった。

 翌日の午後、子どもを送り出した後、私はいつものようにカフェへ向かった。バッグの中には、あのメモが入っている。今日こそ、あの番号へ電話するのか、メッセージを送るのか。胸の奥では不安と高揚がせめぎ合う。店内に入ると、いつも通りの柔らかな光が広がっていた。しかし、秋山の姿は見当たらない。

 注文したカフェラテを受け取り、私は窓際の席につく。メモを指先でなぞると、紙の質感がやけに生々しく思える。ここで連絡を取れば、私たちはどんな未来を紡ぐのだろうか。

 そう考えながら、私はふと気づく。ガラス窓越し、向かいの道の先に、秋山が立っている。彼はこちらを見ているようだ。視線が交わった瞬間、私の心は跳ねる。彼は軽くうなずいて見せ、それから小さく手を挙げた。その仕草が合図のように感じた。

 ――踏み出すなら、今しかないかもしれない。

 カフェラテを置き、私はスマートフォンを手に取る。指先が震える。連絡先画面を開き、メモに記された番号を入力する。送信をタップすれば、私たちの関係は加速する。倫理や常識が、ガラスのように割れる音を想像しながら、私は震える指先でメッセージを送った。

 数分もしないうちに、既読がつく。彼からの返信はとても短い。「こんにちは、香織さん。」それだけなのに、私の頬が熱くなった。まるで、全身が光を浴びているような気分だ。いけない、これはいけない、と心のどこかで警鐘が鳴る。だけど、もう遅い。私たちは、もう氷の上を滑るような危うい関係に足を踏み入れてしまった。

 彼と私が約束したのは、次の日の午後、カフェから少し離れた場所にある小さなギャラリーで開催される写真展だった。カフェ以外の場所で会う、それ自体が既に背徳の匂いを放っている。子どもには放課後の習い事、夫には残業だと言い聞かせ、私は駅前のバスに揺られながら、彼が待つ場所へ向かう。

 ギャラリーに着くと、秋山は私を見つけて笑顔を浮かべ、軽く手を差し出した。その手に触れた瞬間、私は自分がもう引き返せないところまで来ていることを痛感する。彼の温度は驚くほど柔らかく、私が失ったはずの感情を呼び戻す。

 写真展は静かで、人もまばらだった。風景写真が壁に並ぶ中、秋山は説明文を指さして、私にやわらかな声で語りかける。意味深な瞬間が何度も訪れる。肩が触れ合ったり、目と目が合うたびに鼓動が跳ね上がる。いつしか私たちは、外の世界が消え失せたような密度の中にいた。

 写真展を出たあと、彼は提案する。「このまま、もう少し歩きませんか?」同時に、彼の瞳が深く、何か求めるように私を見つめる。その視線に飲み込まれるように、私は頷く。許されない行為であることは承知している。だけど、その溶けていく氷の中で、私は再び生きていると感じたかった。

 夕方、日が傾き始めた街角で、私たちは人混れに紛れるように並んで歩く。ふと、秋山が立ち止まる。向かった先は雑居ビルの小さなホテル。部屋を取ろうとしているのは明白だ。

 私は戸惑いながらも、呼吸が荒くなるのを感じる。エレベーターの中、私たちは互いに息を潜める。ドアが閉まり、上階へとゆっくり上っていく鉄箱の中、彼は私の手を握り、そしてそっと唇を重ねる。その瞬間、私の中の世界が音もなく融解していく。

 部屋に入り、カーテンを引くと、外の光が線となって差し込む。秋山は黙って私を抱き寄せる。その腕の中で、私はすべてを忘れようとしていた。夫との冷えきった関係、家の中に舞う埃、ありきたりな日常――すべてが今、遠ざかっていくようだ。彼の体温は生々しく、私の鼓動を熱くする

 だけど、その密室の静寂の中で、ふと頭をよぎる。これから先、私はどうなってしまうのだろう。罪悪感と快感が混ざり合う中、彼の指先が私の髪を梳いている。どれだけ溶かされても、私は戻れない。その感覚が、ある種の快楽と恐怖を同時に呼び覚ます。

 翌朝、私は日常に戻る。子どもの朝食を用意し、夫のネクタイが曲がっていることに気づく。そのとき、私の心は妙な静けさに包まれている。昨夜の密室で交わされた唇と言葉、肌の記憶が、まだ生々しく私の中に残っている。まるで、すべてが断片的な夢だったかのように。

 しかし、これは夢ではなく現実だ。秋山は存在するし、私たちは一線を越えた。夫と子どもを持つ主婦である私が、確かにその背徳の甘い泥沼に足を踏み入れたのだ。これから先、何が崩れ、何が壊れていくのか、想像するだけで冷や汗が滲む。

 それでも、私は彼からの連絡を待っている。日常という名の膜を突き破り、もう一度、あの甘美な秘密の世界へと落ちていきたいと願ってしまう。まるで、一度舐めた蜜の味から離れられなくなった蝶のように。

 数日後、カフェに顔を出すと、秋山はまたいつもの席にいた。私たちは、お互いにアイコンタクトだけで気持ちを共有する。遠くから見れば、ただの知り合いが挨拶をしているだけに見えるだろう。しかし、その瞳の底には、以前とは違う深みが宿っている。

 彼が席を立ち、トイレへ向かうほんの短い瞬間、私のスマートフォンが震えた。「今晩、会えますか?」

 そのメッセージが、私の心臓を掴み、強く揺さぶる。会う理由も、言い訳も、何も整っていない。ただ、行けばまた溶けていく氷の中で身体を預け、揺らめく視線を交わし、甘い刹那を共有するだけだ。背徳と欲望に満ちた、この果てしないトンネルの先に、何が待ち受けているのかは分からない。

 私は返信を打つ。その指は、もう迷いを捨てたように軽やかだった。「はい、会いましょう。」

 送信した瞬間、周囲から聞こえる主婦仲間の笑い声や、カフェの店員がカップを片付ける音が遠のくように感じる。夫、子ども、家、そして常識という氷の壁――すべてを溶かしながら、私は禁忌の闇へ深く進んでいく

 こうして、私と秋山との関係は、日常と背徳の綱渡りの中で、ますます色濃く、粘度を増していく。溶けていく氷はもう元の形には戻らない。私たちは、熱を帯びた視線を交わしながら、果てのない夜へと沈んでいく。

 その先に、どんな現実が待っていようと、もう構わないと思いかけている自分が、確かにここにいるのだ。

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