【短編小説】 窓辺に揺れる影、あなたへの未練
午後三時。リビングには薄く光が差し、カーテン越しに揺れる影が静かに室内を撫でている。私はテーブルの上のティーカップを両手で包み込んで、わずかに温度を失いかけたそのぬくもりを感じながら、ふと窓の外に目をやった。
外では初秋の風がわずかに吹き、隣家との境界に立つオリーブの木が少しずつ色づき始めている。夫が仕事へ、娘は小学校へ出かけ、家の中は私ひとり。結婚してもう十年が過ぎた。娘は七歳、夫は週に何度かしか顔を合わせないほど忙しい。かつての恋愛感情は、毎日の雑務と忙しさの向こう側に霞み、私たちはすっかり「家族」になっていた。
カーテンのレース越しに、隣家の2階の窓が見える。その窓辺に映る、人影。彼がそこにいる。そっと視線を合わせるように、私も椅子から立ち上がり窓辺へ歩み寄る。レースの隙間から、薄いシルエットが交差する。
彼――雅人さん。半年ほど前、町内会の集まりで出会った。最初はなんでもない軽い挨拶からだった。庭先の草むしり中に「こんにちは」と声をかけられ、夏祭りで焼きそばを手伝ったときにはお礼を言い合い、それくらいのささやかな交流。ところが、彼が私より少し年上で、子どもは独立して夫婦二人暮らしだと聞いたあたりから、どこか気が合うような――まるで昔からの友人のような安心感が芽生え始めた。
そしてある雨上がりの日、ゴミ出しでバッタリ顔を合わせたとき、私たちはほんの少し長めに話し込んだ。お互いの好きな本のこと、日々の退屈さ、微妙にすれ違う夫婦間の気持ち。私は口に出せないはずの不満や寂しさを、ぽろりぽろりとこぼしていた。彼は穏やかに聞いてくれた。あのとき感じた、胸の奥をなぞるような優しさ。
それ以来、たまの朝、カーテン越しの視線が交錯することが増えた。あの距離で言葉をかわすことはない。ただ、ひと目、視線を確かめるだけで心がほどける。夫と目を合わせる機会など滅多にないのに、数メートル先の窓辺にいる彼の存在は、それだけで私を揺さぶる。まるで少女が初恋を思い出すような浮ついた気持ち。そう、それは浮気――正確には不倫という言葉がちらつく感覚だった。
私は今、明確な「関係」を求めているわけではない。それでも、この停滞した暮らしのなかで、心が逸れる先があることが、どれほど救いになっているか。
ある日、夫のワイシャツにアイロンをかけていると、スマートフォンの通知が鳴った。彼からのメッセージだった。町内会の用事という口実で、喫茶店で会おうという誘い。喉の渇きを覚え、息が苦しくなるような興奮。背中で滴る汗を感じながら、私は短い「わかりました」と返信をした。それは、いけないことだと承知している一歩。
翌日、娘を送り出した後に少し時間ができた。夫は出張中で、週末まで戻らない。私はタンスの奥から、少しだけ上質なブラウスを取り出し、無造作に髪をまとめ直す。唇に淡いピンクの口紅をのせ、鏡の前でゆっくりと深呼吸する。
約束の喫茶店は、住宅街の外れにある小さな店だった。駐車場に車を止め、少し遅れて店内へ入ると、彼はすでに静かに待っていた。普段はカジュアルなシャツ姿の彼が、きょうはほんの少し洒落たジャケットを着ている。それに気づくと、頬が熱くなった。
「こんにちは」
「こんにちは、麻里さん」
彼が私の名前を口にする。それだけで、胸が跳ねる。注文したカフェオレはいつもより甘く感じた。最初はお互いにぎこちない微笑みを交わしていたが、少しずつ会話が弾み、幼い頃のこと、最近読んだ小説、夫婦のすれ違い、そして些細な愚痴。それを、彼は困ったような笑顔で「わかるよ」と受け止めてくれる。
喫茶店のテーブルに差し込む午後の光が、私たちの沈黙をやわらかく包む。彼が少し身を乗り出して、「よかったら、またこうして話せるといいですね」と言った瞬間、私は心の中で何かが静かに崩れ落ちていくのを感じた。
その日を境に、私たちはときどき連絡を取り合うようになった。実際には、ほんの数行のメッセージだったり、朝、窓辺に立ったときに交わす短い視線だったり。しかし、それだけで、いつの間にか私は彼に引き寄せられていく。
そして、ある午後。夫は長期出張で半月ほど留守にすることが決まり、娘は義母の家へ短期間預けることになった。自由な時間が生まれる。そのとき、私のなかで抑えきれない思いが膨らみはじめる。もしも、あの窓を越えた先で、私たちが踏み込んではいけない一線を越えるのなら――。
それは、甘い誘惑と自己嫌悪が入り混じる、複雑な感情だった。彼の存在は私に生き生きとした息吹を与えてくれたが、その一方で「こんなことはいけない」と理性は警告を鳴らしている。私には家庭がある。娘がいる。夫だって、口数は少ないし不器用だが、家庭を支えてくれている存在。それを裏切る行為は、決して許されるものではない。だが、寂しさや孤独感は、思ったよりも強い力で私を押し流していく。
半月の猶予。私はこの間に、どれだけ彼との距離を縮めてしまうだろうか。そして、どれだけ罪悪感で胸を苦しくさせることになるのだろうか。
ある日、娘を送り出したあとの静かなリビングで、スマートフォンが振動した。彼からのメッセージが表示される。「近々、話したいことがあります。時間を取ってくれませんか?」その短い文章に、胸がざわつく。何を話したいのか。彼は私と同じ思いを抱えているのか。それとも、踏み込んではいけない一言を口にするつもりなのか。
その日、私は近所のスーパーへ買い物に出かけ、野菜売り場で夕飯のメニューを考えながら、頭の中でいくつものシナリオを描いていた。彼が私に何かを告白する――例えば「あなたが好きだ」と。それを聞いた私はどうするのだろう? きっと嬉しさと罪悪感で頭が真っ白になる。もしかすると、私の心はその言葉を待ち望んでいるのかもしれない。でも、それは間違いなく、この安定した日常への裏切りでもある。
スーパーの喧騒を抜け、夕方の空気が湿り始めるころ、自宅へ戻ると、まるで呼応するように彼から電話が鳴った。いつもはメッセージだけなのに、今日は直接声が聞こえてくる。心臓が跳ね上がるような緊張。「はい、もしもし……」と声を震わせると、彼の低く穏やかな声が耳に届く。
「こんばんは、急にごめんなさい。実は、あさってのお昼、一緒に食事でもどうですか? 少し静かな場所で、話したいことがあるんです」
「……わかりました。あさって、お昼ですね」
その瞬間、舌の根が乾く。自分が何をしようとしているか、わかっているはずなのに、断ることができない。もっと聞きたい、もっと知りたい、もっと近づきたい――そんな気持ちが、私を突き動かす。
あさっての昼。夫は不在、娘もいない。私は自由な女として、彼と会うことができる。おそらく、窓辺でこっそり視線を交わす程度では済まなくなるだろう。直接、手と手が触れ合い、言葉では言い尽くせない感情が交錯するはずだ。
その夜、家事を終えた後に鏡を見る。淡いクマが目の下に浮かび、少しやつれた顔が映る。でも、瞳はどこか期待に揺れている。私は最低だ。家庭を裏切ろうとしている。なのに、まるで初めてのデートに胸を弾ませる若い娘のように、心が躍るのを止められない。
あさって、彼が何を話すかはわからない。けれど、言わずともわかる。二人の間には、もう一線を越えたいという気持ちが漂っている。きっと彼も同じだろう。あの窓辺に揺れる影が、ただの偶然や気まぐれではなかったことを、互いに感じ取っている。
その翌朝、洗濯物を干しながら、私はふと空を見上げた。すっかり秋晴れで、澄んだ青が高く広がる。その青の下で、私たちは何を手に入れ、何を失うのだろう。罪の意識が重くのしかかる一方、甘美な期待に胸が高鳴る。
そして、約束の当日。私は少し上品なスカートと、清楚なブラウスを身にまとい、淡い香水をひと吹きする。出会ったころは何気ない隣人同士だった私たちが、いま、こんなにも互いを欲している。踏み出す一歩が、後戻りできないものになるかもしれない。けれど、そのとき、私は止まる気などなかった。
待ち合わせの場所は、少し離れた住宅街のはずれにある、小さなフレンチレストランだった。普段、こんなところへは来ない。夫ともそういえば、こんなお洒落な店で食事など最近していない。ドアを押し開けると、彼はすでに席について私を待っていた。
「こんにちは、来てくれてありがとう」
「こちらこそ」
席につくと、テーブルクロスは清潔で白く、窓際には季節の花が飾られている。微かなクラシック音楽が耳に心地よく、私たちの緊張した空気をやわらげてくれる。彼はワインリストに目を落としながら、少し躊躇するように言葉を探しているようだった。
料理が運ばれてくる前、彼は一呼吸おいて私を見る。その瞳は、昨日までの「隣人」とは違う、男としての眼差しを孕んでいた。胸が高鳴る。絶対に聞いてはいけない言葉が、もうそこまで来ているような気がする。
「麻里さん……ずっと言いたかったことがあるんです」
その瞬間、私は深く息をのむ。時間が止まったような感覚。まさか本当にこの言葉が、耳を揺さぶることになるなんて。店内の空気が張り詰める中、彼はゆっくりと唇を動かし、紡がれる言葉を私の心に落としていく。
「あなたを……愛しています」
不倫という言葉が、頭の片隅をかすめる。いけない、これ以上は。わかっているのに、胸の奥が甘く痺れて、身動きが取れない。それは、夫との冷え切った日常には存在しない、熱い血の通った生きた感情。私たちはもう、後戻りできないところまで来てしまったのだろうか。
私はそっと目を伏せ、震える指先をテーブルクロスの上で絡め合わせる。選択を迫られるこの瞬間、何を言えばいいのだろう。拒絶すべきなのに、心は彼を求めている。彼の言葉を受け入れれば、私の人生は大きく揺らぐ。それでも、今ここに生まれた熱は、簡単に消せるものではない。
「わたし……」と声を出すと、喉が乾いてまともに話せない。彼の瞳は真剣で、逃れられない。窓辺に揺れる影を見上げていた日々を思い返す。あのときの穏やかな光が、今は甘美な毒に変わろうとしている。
周囲には他の客もいるが、私たちの世界には音がない。静寂の中、私は禁断の果実に手を伸ばす。誰もいないはずの心の奥で、もう一人の私が「それでもいい」と囁いている。いつから私は、こんなにも渇いていたのだろう。
「……わたしも」
その言葉を口にした瞬間、頬を流れる熱いものがある。後悔は、あとでいい。今は、ただこの瞬間に身を委ねてしまいたい。彼の手が、静かに私の手の上に重なる。その重みは決して軽くはない。けれど、確かな温度がそこにあった。
不倫。裏切り。許されない恋。
すべては知っている。こんなことは、決して幸福な結末をもたらさないかもしれない。だが、今この刹那、私は確かに生きていると感じる。窓辺に揺れる影に導かれるように、私は彼という新たな光に身を溶かしていくのだった。