【短編小説】 午後3時の愛人
午前中、掃除機をかけ終わり、洗濯物を干し、昼食の残りを冷蔵庫に収める。子ども達は学校、夫は会社。都心から少し離れた閑静な住宅街の一角で、直子はいつも通りの家事を淡々と片付けていた。34歳、結婚して12年目、娘は小学5年生、息子は2年生。夫の浩二は真面目で穏やか。家計をしっかり支え、週末には子ども達と公園で遊んでくれる理想の父親。
ただ、そんな「普通の」家庭を維持しながら、直子はもう一人の「特別な存在」を抱えている。
午後2時半、手近なカーディガンを羽織り、淡いベージュのパンツに白いブラウスを合わせて鏡に映る自分を確かめる。思わず首筋に手をやり、そこに残るかすかな香水の余韻に意識を向ける。心なしか頬が上気しているように見えた。休日でなくとも、彼との逢瀬はいつも午後3時。この時間帯は近所の主婦たちがちょっとしたティータイムを楽しむ頃。誰もがよくある「ママ友カフェ会」だと思っているだろう。
だが、そこにいるのは彼女ともう一人――啓介。10歳年上の、静かな笑みを湛えた彼だ。
ふと、3ヶ月前の記憶が蘇る。梅雨時のじめじめした午後、スーパーの乾物コーナーで塩昆布を探していた時、啓介は声をかけてきた。
「すみません、この塩昆布、いつもどの辺にありますかね?」
初対面なのに、彼は不自然なくらい自然な笑みを浮かべていた。直子はそれなりに丁寧に答え、二言三言交わし、その日は終わった。それが最初の接点だった。
しかし、その後、同じスーパーで何度も鉢合わせするうちに、いつの間にか言葉を交わす機会が増えた。最初は偶然だと思った。だが、彼は直子がよく買う銘柄の豆腐を当たり前のように手渡したり、レジ待ちの列でさりげなく話題を振ったり。
徐々に、直子は啓介が「わざと」自分に近づいていると感じ始める。けれど、その頃にはすでに彼の雰囲気に惹かれ始めていた。家に戻ると、心は少し熱を帯びて、彼の低い声や柔らかなまなざしが頭をかすめる。夫との生活になんの不満もないはずなのに、ひとたび出会ってしまうと、その「不満のなさ」が逆に平凡でつまらないと感じられ、密かに胸を騒がせる自分がいることに気づいてしまうのだ。
そしてある日、朝の買い出しの帰り道、彼は言った。
「もし、あなたがお時間あるなら、午後3時頃に近くのカフェでお茶でも如何ですか?」
直子は一瞬逡巡した。ママ友とランチすることだってあるし、その延長でカフェに寄ることもある。夫は夕方まで帰らない。子ども達も習い事の日なら問題ない。そう考えると、罪の意識はまだ薄かった。彼を知りたい、という無邪気な好奇心があった。しかし、カフェで向かい合う彼との時間は、最初こそ「知り合い」から「友人」になる程度の距離だったが、季節が夏に向かうにつれ、二人の関係は微妙に熱を帯び始めた。
啓介の話し方は穏やかで、どこか古い映画を思い出させる余裕があった。彼は独身だと打ち明け、会社員だと言うが、仕事の話は多くない。もっぱら街角で見かけた猫、行列の絶えないパン屋、季節の花が咲く公園の話――そうした些細なテーマが、直子には心地良かった。日々の家事と育児、夫との安定した関係とは別の回路で、自分が輝いているような気さえした。
そうして毎週金曜、直子は午後3時に家を出た。クリーム色のカーディガンと少し光沢のあるリップ。それだけで、彼に会うための秘めたる装いになる。啓介はいつも先に席についていて、隅のテーブルで静かに待っている。彼女が近づくと、柔らかな微笑みで出迎える。
「今日は暑かったでしょう。冷たいアイスティーでも」
そんな言葉が、まるで契約書のサインのように二人の密会を繰り返していく。
だが、ある日のこと。初秋の風が吹き始めた頃だった。直子はカフェの扉を開けると、そこにはふだんと違う張り詰めた空気が漂っていた。啓介はいつも通りの場所にいる。だが、その目は深い何かを秘めているように見えた。
椅子に腰かけると、啓介は口を開かない。テーブルの上には、スマートフォンが伏せられている。その背面には子供の描いたような小さなシールが貼られていた。いつもは軽い冗談から入るのに、今日はない。妙な静寂が直子の胸を締め付ける。
「どうかしたの?」と直子が促すと、啓介は視線を上げた。その瞳はどこか憂いを帯びている。
「実は…話さなきゃいけないことがある」
「話すって、何?」
「もう、こんなふうに会うのはよくないと思うんだ」
その瞬間、直子の心は強く揺さぶられた。手の平が汗ばんでくる。「どういうこと? 何かあったの?」
啓介は俯き、息を整えるようにしている。まるで、決心を固めるかのように。
店内には他愛ないおしゃべりと食器の擦れる音が微かに漂う。窓の向こうには夕暮れ前の陽射しが射し込み、カップの中で揺れる氷が小さく音を立てる。その小さな音すら、今の二人には大きすぎる気がした。
「直子さん、僕は…」と、啓介が言いかけた瞬間、直子のスマートフォンが軽い振動を伝えた。画面を覗けば、夫・浩二からのメッセージだった。
『今日は何時に帰る?夕飯の買い物、手伝おうか』
いつも通りの優しいメッセージ。それが、今この場の緊張をより際立たせる。
直子は画面を消し、啓介に視線を戻した。彼の言葉はまだ続いていない。その唇は微かに震えているように見えた。
「よくないって、何が?私たちはただ、お茶をしているだけじゃない。あなたが独身だって言うから、私は…」
言葉の途中で、啓介がゆっくりと首を振る。その表情は苦悶に満ちている。
そして、彼が口を開こうとした、その一瞬――
「…直子さん、僕は嘘をついていた」
その言葉は、直子の胸を一瞬で凍らせた。嘘、とは何なのか? 彼が独身じゃないということ? それとも別の秘密を抱えているのか?頭の中で様々な可能性が交錯する。
「嘘って、どういうこと?」
ゆっくりと、啓介はテーブル越しに手を伸ばし、直子の手元まであと少しのところで止める。伸ばされた指先はわずかに震え、何かを求めるようでもあり、拒もうとしているようでもある。
「僕は…結婚しているんだ」
その瞬間、直子の視界が歪む。喉が乾いて声が出ない。啓介が既婚者? それなら自分と同じ、既に家庭を持つ身。それ自体が罪悪感を煽るはずなのに、なぜこれまで黙っていたのか。その事実が、甘やかな密会を裏切る刃となって突き刺さる。
「じゃあ、どうして今まで隠していたの?私、あなたは独りで寂しいのかと思ってた。だから…私も。」
そう、直子は自分に言い聞かせていた。彼は孤独な男で、そこに自分が少し寄り添っているだけ、と。お互いフリーなら、小さな秘密の関係だって、まだ罪の意識は薄かった。しかし、相手も既婚者となると話は別だ。この関係は不倫以外の何ものでもない。
「言えなかったんだ」と啓介は搾り出すような声で続ける。「君とこうして話すのが心地よくなってしまって。最初は偶然だった。でも、いつしか僕は君を求めるようになっていた。君も既婚者だろう? だったら余計に言えなかったんだ。気づいてしまうだろう、この関係の危うさに」
彼の声は弱々しく、だがそこには本音が滲んでいる。
直子は立ち上がりたい衝動に駆られる。店を飛び出し、この不愉快な事実から逃れたい。しかし、啓介の瞳に宿る揺らめきは、彼がただの遊び人ではないことを示唆している。彼は傷つき、苦しんでいる。そう、直子自身もだ。
「でも、私たちはもう…戻れないわ」
直子の声は震える。ここ数ヶ月、午後3時のカフェは彼女にとって光だった。無自覚に閉ざされていた心の扉を開けてくれた人。それが、同じ罪を背負う相手だったなんて。
「僕は、君に会うたびに罪悪感があった」と啓介は口元を歪める。「でも、会いたかった。君が笑ってくれる度に、日々の疲れや孤独が薄れる気がした。僕も家では『いい夫』を演じてる。だけど、どこかで自分が消えていくような感覚があって…」
その言葉は、直子には痛いほど理解できた。家事と育児、そして夫との穏やかすぎる日常。その中で、自分という女性が徐々に透明になっていくような、どこかで染みついた諦念。彼はそれを同じように感じていたのかもしれない。
直子は深く息を吐く。この関係は終わるべきなのだろうか? 互いに既婚者であると知ってしまった以上、平静ではいられない。もし夫に知られたら。もし彼の妻に気づかれたら。リスクばかりが膨れ上がる。
「あなたは、これからどうしたいの?」
その問いは、直子自身への問いでもあった。彼と別れるべきか、それともこの関係を受け止めるのか。
啓介は視線を外し、窓の外を見つめる。
「わからない。きっと、僕は君とこうして会うことをやめられないだろう。でも、君を苦しめたくはない。どうすればいいか、答えが出ないんだ」
その曖昧な返答が、直子の胸をさらに締め付ける。彼もまた行き場のない感情を抱えているのだ。
カフェの店員が新たな水のグラスをテーブルに置く。その透明な液体に、窓辺からの光が揺れる。まるで二人の未来が不確かな水面に映る陽射しのように揺らめいているかのようだった。
「私たち、このまま関係を続ければ、いつか誰かに気づかれるわ」
直子の言葉は冷静さを取り戻したかのようだが、その内側には嵐が渦巻いている。家に戻れば夫がいて、子ども達がいる。その笑顔を裏切るような行為を、自分はこの先も続けていけるのか?
啓介は軽く眉間に皺を寄せる。「そうだね。いずれ破綻するかもしれない。それでも、僕は君と過ごすこの午後3時という時間を手放したくないんだ。君は、僕にとって…心が呼吸する瞬間なんだよ」
その言葉が甘やかな毒となって心に沁みわたる。思わず直子は喉を鳴らした。ああ、彼も同じなのだ。家の中で「妻」や「夫」として完璧に動くために、この午後3時が必要だなんて。なんと歪な生き方だろうか。
直子は、震える指先でカップを持ち上げ、紅茶を一口含む。その冷たい液体が舌先を刺激する。
「私たちは罪を犯している。でも、それがなければ、私はただの『良い妻』『良い母』でしかなかったのかもしれない。あなたはどう? 私はあなたにとって、ただの逃避先?」
啓介はかぶりを振る。「違う。君は…君自身が持っているもの――優しさや、少し不器用な笑顔や、心配そうに皺を寄せる眉――すべてが僕の心を満たしてくれる。決してただの逃避じゃない」
その言葉に、直子はほんのわずかだけ笑みを浮かべる。しかし同時に、自分たちの行為は決して肯定されないとわかっている。何かが壊れるのは時間の問題だ。
「私たち、どうする?」
その問いに、啓介は再び沈黙した。時間だけが過ぎる。カップの中の氷が溶け、水面が揺れる。遠くから聞こえる子どもの笑い声が、ガラス越しに微かに響いてくる。現実がすぐそこまで迫っているのを、二人とも薄々感じていた。
「一度、距離を置こう」
直子がそう告げると、啓介は驚いたように目を瞬かせる。
「距離…?」
「ええ。お互い、今の関係が何なのか考える時間が欲しい。家に帰れば、私は母で妻。その役割が私をがんじがらめにするけれど、それはあなたも同じはず。私たちは現実を見なくちゃいけない」
その理屈は正しい。けれど、心はそれを拒んでいる。啓介の表情には、痛みが浮かんでいる。それでも彼は頷くしかなかった。
「どれくらい…?」
「わからない。だけど、一度、私たちは普通の日常に戻るべきよ。それができなければ、全てが崩れ落ちてしまう」
直子の言葉に、啓介は視線を落とす。彼はそれ以上何も言わなかった。店内の空気が急速に冷えていくように感じる。
直子は静かに席を立ち、カーディガンを羽織る。
「さようなら、啓介さん」
その言葉に、彼は手を伸ばしかけるが、途中で止める。取り戻せない瞬間が通り過ぎていくようだった。
外に出ると、空は茜色に染まり始めている。もうすぐ子ども達が帰ってくる。夫も定時で帰宅するかもしれない。いつもの「平凡な生活」がそこにある。直子は胸の奥で疼く痛みに耐えながら、来た道を戻る。
今日は、もう午後3時の愛人には会えない。それでも、あの時間が心に残した熱は消えず、微かな痕跡を残していくだろう。
心には、絡まるような罪悪感と、触れ合った温もりの残響がある。もう戻らないかもしれない。けれど、もしかするとまた、午後3時、彼と目が合う瞬間が訪れるのかもしれない。
そんな儚い期待を抱きながら、直子は秋の風を受けて歩き続ける。家路に向かう彼女の背中は、先ほどよりわずかに重く、しかし確かに、ひとつの物語を胸に刻んでいるのだった。