【短編小説】 遠い駅で交わした嘘と本音
雨がやんだばかりの午後、私は駅前の小さなカフェの窓際席で、冷めかけたカフェオレを見つめていた。平日の昼下がり、夫は会社に、子供たちは学校にいる時間。ここにいることを誰も知らないし、私が誰かと待ち合わせをしていることも誰も気づかない。すべてが秘密で、すべてが罪だと分かっている。それでも、胸の奥は高鳴り、指先が微かな震えを帯びる。
彼と出会ったのは、半年前のことだった。定期的に利用する、家から少し離れたショッピングモール。その一角にある無印良品で、私が手に取ったストールを彼も同時に取ろうとして、指先がぶつかった。彼は私より少し年上に見えたが、清潔感があり、落ち着いた雰囲気だった。目が合った瞬間、彼は微笑んで「どうぞ」とストールを譲ってくれた。そのひとことだけで、どこか安心できる人に思えた。それから、その偶然を機に、何度か同じモールで顔を合わせるようになった。すれ違うたびに軽く会釈をし、ある日、彼は私に話しかけてきた。穏やかな声、丁寧な物腰。彼の名前は中村といった。彼には妻がいるらしかったが、詳細には触れなかった。そして私も、夫と子供がいることを説明しなかった。説明できない空気が、そこにはあった。
「たまには違う街で会いませんか」と、彼が言ったのは最初に二人でランチをした帰り道だった。地元から一駅、二駅とずらし、見知らぬ駅で落ち合うようになっていく。その駅は私たちの生活圏から外れた、小さな私鉄の沿線にあった。人気の少ないホーム、昔ながらの喫茶店。そこはまるで、私たちの嘘と本音を隠してくれる隠れ家のようだった。
「この駅、なんだか懐かしい感じがしますね」彼はそんな風に微笑む。私は「そうね」とうなずくだけで、本当は何が懐かしいのか分からなかった。ただ、私はその駅の空気を吸うだけで、普段の自分から遠ざかれる気がした。いつも家事に追われ、仕事を持っているわけでもない私は、夫に「君がいてくれて助かるよ」と言われながらも、どこか自分が「誰かの付属物」になっているような感覚を拭えなかった。子供たちが成長するにつれ、母としての役割は消えていくわけではないが、確かに変容していく。夫婦仲が悪いわけでもない。だが、二人の会話はどこか淡泊になり、週末に出かける先もマンネリ化している。夫に不満があるわけではないけれど、私はずっと「私」という存在を求めていた。
そんな私が、中村という「他人」に心を揺らされるようになるまで、時間はかからなかった。一緒にコーヒーを飲む。スーパーで売られている豆とは違う香りの高さに驚いて笑い合う。彼が見せる小さな気遣い、軽い冗談、そして微かな肩書きのような匂い。それらは、私に忘れていた女としての感覚を呼び覚ましてくれた。
もちろん、後ろめたさはいつもある。帰宅して食卓を整えるたび、子供に「おかえり」と言われるたび、夫がソファで新聞をめくるたび、私の中で罪悪感がうずく。でも、それでも彼に会う日の朝は、洋服選びに気合を入れ、ほんの少し口紅を濃くしてしまう自分がいる。私は「あの駅」でだけ、自分が解放される気がしていた。
ある日、いつものように平日の午後、中村と駅前のカフェで会う約束をしていた。私は家からバスと電車を乗り継ぎ、いつもの遠い駅へ向かう。その日だけは夫に「友達とランチ」と嘘をつき、子供には「図書館で本を読む」と伝えた。両方とも本当ではない。でもここまでしても会いたい人が、私にはいるのだと、そのことが自分で不思議だった。
カフェに入り、窓際の席でぼんやりと駅のホームを見つめる。ホームには人影がまばらで、遠くに売店の小さな灯りが揺れている。やがて、約束の時刻より少し遅れて中村が入ってきた。彼はどこか沈んだ表情だった。コートから水滴が落ちる。降っていた雨が、まだ上がりきっていないらしい。
「どうしたの?」と私が尋ねると、彼はいつもの穏やかさを装ったまま、「ちょっと仕事でトラブルがね」と笑った。その笑みが少し不自然に思えた。何か言い出しづらいことがあるのか、それとも私に隠していることがあるのか。彼はふと周囲を見回し、小さく息をついた。
「今日、君に伝えたいことがあるんだ」
その一言が私の心をざわつかせた。何を言われるのだろう。この関係に終止符を打つ気なのか、それとも……
彼は続ける。「俺たち、次に会うときは……」
あの日の雨と同じような、どこか肌寒い空気がカフェの中を覆っていた。テーブルの上のカップの縁には、口紅のあとが微かに残っている。中村の視線は、まるで私を試すように揺れ動いていた。その瞳に宿る迷いが、私の中にも伝染する。
「次に会うときは、もっと遠くで会わないか」彼はそう言った。
「遠くって……どこへ?」
「この駅よりも、もっと遠く。君が知らない街で、誰も僕らを知らない場所で。そこで、一日二人きりで過ごそう」
私は息をのんだ。遠くの街――それはほんの小さな逃避かもしれない。でも、家や日常からさらに離れた場所で過ごすことは、つまり関係をより深くすることを意味していた。夫との日常から一歩踏み出した「不貞」の一線を、さらに濃く塗りつぶしてしまうかもしれない。
「そんなこと、できるかしら」私は困ったように笑う。
「君が来てくれればいい。俺も嘘を重ねることになるけど、嘘はもうたくさんだ。もっと正直に君といたいんだ」
彼は私が何かを言う前に、コーヒーを一口すする。その時の表情は、悲しみと期待、そして焦燥がないまぜになったように見えた。私が黙っていると、彼はさらに言葉を重ねた。
「もう気づいてるだろうけど、俺たちは単なる退屈しのぎじゃない。この関係は、どこかで答えを出さなきゃいけない。俺は、君が欲しい。全部が欲しいって言ったら、困るかな」
私は思わず目を伏せる。欲しい、全部が欲しい――その言葉は、まるで恋人同士が交わすような甘い響きを帯びていた。でも、その背後には、私たちが壊してしまうかもしれない誰かの生活がある。夫と子供たちの笑顔が、ふと頭をよぎる。
結婚して十数年、ずっと良き妻、良き母であろうとしてきた。愛情は確かにある。ただ、その一方で自分という個が溶けてしまうような不安や息苦しさもあった。中村と過ごす時間は、その停滞した空気に風穴を開けてくれる存在だったが、その風は私たち夫婦の家の窓ガラスをひび割れさせてしまうかもしれない。
「困る……」と、私の声はかすれる。
「困るよね」彼は乾いた笑い声を立てる。「分かってるんだ。でも、俺はもう嘘をつくのは嫌なんだ。この駅で何度も君に会って、そのたびに ‘いつか’ を期待して帰る生活には疲れた。もっと一緒にいたい。君はどうだい?」
どうだい、と問われても、私は頭が混乱していた。家に帰れば、夕飯の支度が待っている。今日の晩はハンバーグだったはずだ。子供が「お腹すいた」と言ってキッチンに来る。夫は「今週末はどこか行こうか」と提案するかもしれない。そうした、小さな平和が、私の手元からすり抜けていくかもしれない決断を、私は下せるのか。
「一日、だけなら……」
その言葉が口をついて出たとき、私は自分が自分でなくなっていく気がした。まるで他人が私の声帯を通して答えたみたいに、すんなりと出てしまったのだ。一日、たった一日だけなら。遠い街、知らない場所で、中村と過ごしてみる。その先に何があるのか、私は考えないようにした。
彼は嬉しそうに微笑んだ。「ありがとう。じゃあ、次の休日に合わせよう。ここじゃない、もっと遠くの駅で待ち合わせをしよう。誰も知らない街で、君と二人きりで……」
いつから私は、こんなに大胆になってしまったのだろうか。いつから私は、こんなにも自分を解き放つ相手を求めていたのだろう。罪悪感はある。でも、その罪悪感さえも、まるで禁じられたスパイスのように、私の中で刺激的な味を放っている。
カフェを出ると、再び雨が降り出していた。中村は折り畳み傘を差し出し、私と肩を寄せ合って歩く。見知らぬ駅のホームへ続く路地は、薄暗く、人通りが少ない。誰も私たちを知らない。誰も私たちを咎めない。
「次は、もっと遠くの駅で」彼はそう言って、別れ際、私の手を強く握った。その感触は、夫の手とは全く違う、熱を帯びたもので……私はそれを拒まなかった。
家に戻ると、私はいつもの主婦に戻る。エプロンを着け、包丁を握る。野菜を刻みながら、さっきまでの出来事が夢だったように思える。夫が帰宅し、子供たちが塾から戻る頃には、私は笑顔で迎える。誰も知らない嘘が、家の壁の向こう側に横たわっていることなど、誰も気づかない。
翌週の休日、私は「遠い駅」で彼を待つことになっていた。その日が近づくにつれ、胸の鼓動は高まり、同時に恐怖も膨らんでいく。もし夫にバレたら? もし、子供たちに何かあれば? 私を取り巻く穏やかな日常は、簡単に崩れ去るかもしれない。それでも私は行くつもりだった。彼が私に求めた「正直さ」――それはあまりにも危険な誘惑だった。
当日、私はいつもより早く家を出た。「友達とランチ」を装うため、少し小綺麗なワンピースを着て、香水をほんのひとかけした。夫は「そうか、楽しんでおいで」と気軽に送り出す。彼は私がこれから何をしようとしているか、夢にも思わないだろう。
電車を何度も乗り継ぐうち、景色は徐々に見慣れないものへと変わっていく。高層ビルは低くなり、車窓から見える住宅街は次第に古い家並みへと移ろう。やがて、その駅は現れた。小さな改札、軒先に花が飾られた駅舎。私は息を飲み、ホームを渡る。まだ中村は来ていない。
心臓の音がうるさいほど響く。振り返れば、ここから家まではもう遠い。過ちから戻るのは、簡単ではない。
その時、背後から聞き慣れた声がした。
「こんなところで、なにしてるの?」
驚いて振り向くと、そこには夫が立っていた。
何故ここに? 私は言葉を失う。遠い駅、誰も知らないはずの場所で、夫が私を見下ろしている。怒りか、それとも疑念か。その表情は判別できない。私は口を開こうとするが、声が出ない。
「ずいぶん遠くまで来たね」夫は静かに言う。
嘘がばれた――かもしれない。私は冷や汗をかき、指先が震えた。この瞬間、私は中村からのメールで届いた「今日、どこどこ駅で会おう」というメッセージを思い出す。夫はそれを見たのか? それとも何かの偶然なのか?
ホームの向こう側、人混みの向こう側に、中村の姿が見える。彼は私に気づき、小さく手を挙げた。だが、私は動けない。目の前には夫がいて、背後には彼がいる。この一瞬で、全てが壊れていく可能性があった。
「俺がいない間に、そんなに遠くへ行きたかったのか?」
夫の声は静かで、感情を押し殺しているようだった。私はなんとか笑みを作ろうとするが、それはきっとひきつったものだったに違いない。
「違うの、これは……」うまい言い訳が浮かばない。家を出るとき、私はいつもと変わらぬ妻として振る舞った。それがまるで、仮面だったかのように感じる。私を求める男性が二人、両側に存在する。この状況は、あまりに皮肉で、あまりに残酷だった。
中村が近づいてくる。夫と私、その間に重たい空気が漂う。もう嘘は通用しないかもしれない。私はどちらに背を向け、どちらを選ぶのか。遠い駅で交わした嘘と本音、その決着をつけなければならない。
足元から力が抜けていく中、私は必死に声を絞り出す。
「ごめんなさい……」
それは夫に対してなのか、それとも中村に対してなのか、自分でも分からない。両方に対してなのかもしれない。
雨がまた落ちてきた。夫の背後、傘を持たない中村がこちらを見つめている。その視線は問いかけてくる。「どうするんだ」と。夫もまた、黙ったまま私を見つめてくる。その眼差しには、これまで見たことのない深い疑念と悲しみが宿っているように思えた。
遠い駅で交わした嘘と本音――私はその代償を、今まさに支払わされようとしていた。自分が何を求めていたのか、もう分からない。ただ、この瞬間だけは、誰かを選べば誰かを傷つける。その事実が、私の中に重くのしかかる。
ごうっと遠くで電車の音がする。決断は避けられない。私は小さく息を呑み、瞳を閉じる。今まで見えていた景色が真っ暗になり、心の中には、あのカフェで感じた淡い甘さと、家で刻んできた穏やかな日常が混在していた。
どうすればいいのだろう? この先、どちらに向かえばいい? 遠い駅で交わしたあの嘘が、私を導く先には、何があるのか。
誰の手を取るべきなのか、あるいは誰の元にも戻れないのか。それは、もう私自身にも分からなかった。
雨音が強まり、傘のない中村と、呆然と立ち尽くす夫、そして言葉を失った私。その三人の姿は、小さな駅の片隅で、静かに崩れ落ちるような調和を描いていた。私はもう、嘘を重ねることも、本音を語ることもできない。
ただ、弱々しく震える手を握りしめるしかなかった。