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【短編小説】 昼下がり、コーヒーの香りに隠された罪

 その日、私――美咲(みさき)は、いつものように洗濯物を干し終え、子どもたちが幼稚園や小学校から戻るまでの僅かな自由時間を、近所のカフェで過ごそうとしていた。夫は相変わらず仕事に忙殺され、平日の昼間に夫婦で過ごせる時間など皆無に近い。ごく普通の郊外の一軒家、古めの家具、一家四人分の洗濯物。それらを一通りこなした上で私に残されるのは、せいぜい午後二時から三時半までの、ひとりきりの静かなひととき。

 カフェの扉を開くと、柔らかな木目調の内装に、焙煎したコーヒー豆の香りが鼻腔をくすぐる。いつもの丸テーブル席を選び、好きなブレンドコーヒーと小さなタルトを注文する。ここは地元で評判の自家焙煎店で、午前中はママ友が集うが、この時間になるとその喧噪も落ち着く。代わりに、外回りの営業マンや在宅ワーカーらしき人々が散在し、ノートPCを開いたり、スマホをいじったりしている。そんな中で、私はつとめて平凡な一人客を装う。

 夫とは昨晩もすれ違った。帰宅は深夜、会話は「風呂入るよ」「お疲れ様」程度。恋人同士だった頃の熱や、子どもたちが生まれたばかりの頃の温もりは、今や遠い幻のようだ。私は夫を責める気になれない。働いてくれているし、家庭を維持するための大黒柱。それはわかっている。わかっているからこそ、今の自分が抱く淡い欲望に戸惑い、そして少しだけ罪悪感を覚えていた。

 カフェの窓際に座る若い男性――涼介(りょうすけ)さんと初めて言葉を交わしたのは、一ヶ月ほど前だ。彼はフリーランスのウェブデザイナーで、自宅で仕事をする合間によくこのカフェを利用すると言っていた。最初は、注文カウンターで彼が落としたスマートフォンを私が拾ってあげた。それが小さなきっかけ。その後、「こんにちは」と軽く挨拶を交わすようになり、次第に会話が増えていった。仕事の合間の息抜きと称して、彼は時々私のテーブルにやってきて、何気ない雑談を楽しむ。

 「美咲さん、今日も来てたんですね」

 いつの間にか、隣の席に腰掛けた涼介さんが、控えめな笑顔で私を見る。彼は二十代後半くらいだろうか。私より数歳若く、細身で柔らかな雰囲気を纏っている。

 「ええ、子どもたちが帰ってくるまでの、短い贅沢時間なんです」

 このやりとりも何度目だろう。私は自然な微笑みを浮かべつつ、心のどこかで自分が自分でなくなりつつあると感じる。家庭があって、子どもがいて、夫もいる。なのに、こうやって他の男性とのおしゃべりを心待ちにしている自分。

 「ちょうどいい、僕も集中力が切れたところだったんです。今日は新しい案件の企画書をまとめなきゃいけないんだけど、なかなかうまくいかなくて」
 「そうなんですね。大変そう。私は企画書とかよくわからないけど、クリエイティブな仕事って、調子が乗らないときは難しいですよね」

 家事や育児は終わりが見えないけれど、彼の仕事は常に〆切と戦いながら、自分のアイデアを形にする作業なんだろう。話を聞くたびに、私にはない世界がそこに広がっているように思えて、何ともいえない高揚感を覚える。

 「そうなんです。でも美咲さんと話してると、なんだか気分が楽になります。なんというか、疲れた頭がリセットされるんですよね」

 彼はそう言って、軽くウインクした。胸がちくりと痛む。褒められ、認められることに飢えていたのは、私の方だ。夫からはもう長いこと、そんな言葉をもらっていない。夕食の味をほめられた記憶はいつだろう。最近は子どもへの「ママ、いつもありがとう」さえ、どこか事務的に感じる。

 彼との会話は、心を満たしてくれる甘いデザートのようだった。ふんわりとした甘さが、家庭のすき間を埋めてくれる。いけない、とわかっているのに、その感覚はあまりにも心地よく、私はまた一歩深みへと足を踏み入れてしまう。

 そんなある日、涼介さんはいつもの席に座らず、私の正面にぴたりと来て、小声で囁いた。

 「この後、少し時間ありますか? 実は……もう少し二人で話がしたいんです」

 その時の彼の視線は、今までの軽い調子とは違う、どこか熱を孕んだものだった。店内の穏やかなBGMやコーヒーの香りが、私たちを隠すカーテンのように感じられる。思わず頷いてしまった自分が怖かった。

 「……はい、少しなら」

 もう後戻りはできないのかもしれない。そう思いながらも、身体が勝手に動く。カフェを出たら、どこへ行くのだろう。涼介さんは私をどこへ誘おうとしているのか。胸の鼓動が早まる。

 店を出て、彼は少し離れたビジネスホテルの方をちらりと見た。その仕草を見ただけで、私の頬は熱くなり、喉が渇く。「今日は時間があるんです。だから……もう少し、二人で」彼はそれ以上は言わなかったが、十分すぎるほど意味は伝わった。

 私は断ることができない。理性は必死に警鐘を鳴らす。「ダメよ。ここで行ったら、もう本当に戻れない」でも、心の底で、もう何かが壊れはじめている。

 「……わかりました」そう答えた瞬間、私たちはもう普通の知り合いではなくなった。夫との結婚生活の中で蓄積した空虚さ、認められたい欲求、そして女としてもう一度輝きたいという浅ましい欲望が、私を押し流す。

 涼介さんは先に歩き出した。私は数歩遅れてついていく。そうすることで、私たちがあからさまなカップルに見えないように。けれど通り過ぎる車の窓ガラスに映る私たちの姿は、どうしようもなく怪しい。

 ビジネスホテルの狭いロビー、無機質なフロント、エレベーターの中の不思議な沈黙。

 部屋へと誘われるまでの数分間、私の頭は空回りする。夫の顔、子どもたちの笑顔、そして涼介さんの囁く声が混ざり合い、理性と欲望がせめぎ合う。ドアが閉まり、カチリと鍵がかかった音が、私の行為に蓋をする。

 「大丈夫ですか? 緊張してるみたい」

 涼介さんが笑う。その優しい声が、今は恐ろしいほど甘く響く。私の中で何かが溶けて流れ出すような感覚があった。

 私はベッドの端に腰掛け、ぎこちない笑みを浮かべる。こういう状況を想像したことなどなかったわけではない。むしろ、平凡な毎日の中で、時折脳裏をよぎる“もしも”の世界。それが今、目の前に現実として横たわっていることに、驚きと、ある種の満足感さえ覚えてしまう。

 涼介さんは薄手のジャケットを脱ぎ、テーブルに放った。彼の動作は自然で、特別なことが始まるといった大げさな様子はない。お互い、大人だ。言葉にはしなくても、ここに来た意味は二人とも分かっている。

 「何か飲みます? 部屋にティーバッグがあったと思うけど……」
 「いえ、今は何も」

 本当は冷たい水が欲しかった。乾いた喉を潤したかった。でもここで口をつけたら、何かが決定的に変わってしまう気がして、私は遠慮した。

 部屋は清潔ではあるが、味気ない。ベッドが一つと小さな机、空調の音が静かに響く。そのすべてが、私の背筋を微かに凍らせる。浮気。不倫。その言葉が頭をかすめるたび、胸が軋む。だけど、今さら帰れない。

 涼介さんは私の隣に腰を下ろした。ふと横顔を盗み見ると、彼も緊張を押し殺しているように見える。外見は柔和で、これまで何度も無邪気な笑みを交わしてきたけれど、その内側にはどんな思いが渦巻いているのだろう。

 彼が私の手にそっと触れた瞬間、電流のような衝撃が走った。久しく感じていなかった、肌と肌の温もりが、シンプルでいて残酷なくらい私を揺さぶる。いつから夫とこんな風に手をつないでいないだろう。子どもたちを送る際に彼の手を握ったことなんてあったかしら。

 その問いは、私の心を突き刺し、そして同時に、今ここで起きていることを正当化させる。そう、私はただ愛されたかっただけ。認められたかっただけ。悪いのは時間をくれない夫であり、私を女としての一人の人間として見なくなった日常であり、私を求めてくれるこの若い男性との出会いは、偶然に過ぎないのだ。

 彼が顔を近づけてきた。唇と唇が触れ合う直前、私は一瞬目を閉じる。コーヒーの香りとは違う、男の人特有の体温が鼻先をかすめる。後悔は、まだ生まれていない。むしろ、これから始まる秘密の時間が、私という人間をもう一度鮮やかにする気がしてならなかった。

 キスは甘く、そして淡い後悔をはらんでいた。彼の舌先が私の唇をなぞるたび、脳裏に夫の顔がよぎる。だけど奇妙なことに、それは罪悪感よりも背徳の快感を増幅させる。

 「美咲さん、綺麗だね」

 囁かれる賛辞。女として喜んでしまう自分が哀れだ。家庭の中ではもうその価値を見出されていないと思い込んでいた私にとって、その言葉は麻薬だった。

 そして、これが一度きりで終わらなかったのは、私たちがあまりにも簡単に「秘密」に慣れてしまったからだろう。昼下がり。子どもたちが不在で、夫も仕事でいない時間帯。コーヒーの香りが漂うカフェで落ち合い、その後はもうお決まりになってしまった流れ。

 最初こそ躊躇いがあったが、二度、三度と繰り返すうち、私はこの罪深い贅沢になじんでいく。涼介さんは口が堅いし、余計な詮索もしない。私が家庭での不満を漏らせば、彼はただ優しく頷いてくれる。彼がクリエイティブな仕事の行き詰まりを吐露すれば、私はそれを静かに聞く。誰も傷つけない、そう思い込みながら、私たちは関係を深めていった。

 だが、ある日の午後、いつものようにカフェで彼を待っていると、見覚えのある背中が視界に入った。少し離れた席で新聞を読んでいるのは――夫だった。なぜ夫がここに?仕事中のはずなのに。それとも、このカフェに立ち寄ることがあったのだろうか。

 心臓が喉元で脈打つ。夫は私には気づいていない。眼鏡越しの視線は紙面を追っている。けれど、彼が視線を上げれば、簡単に私を見つけられる位置関係だ。私の喉はひりつき、汗が背中を伝う。そう、今日は涼介さんとこの後、またあの部屋へ行くはずだった。夫の存在は、その安穏な関係に鋭い刃を突き立てた。

 カウンターに置いたスマホが振動した。涼介さんからのメッセージ。「今カフェに向かってます。今日は企画書終わったから、ゆっくりできそう」

 なんて皮肉だろう。ゆっくりできるどころか、今まさに私は地獄の縁に立たされている。夫は相変わらず新聞に没頭しているが、いつ気づくかわからない。どうする? ここから立ち去るべきか。それとも、気づかぬふりをして涼介さんと会い、まさかの修羅場を迎えるのか。

 人生はコーヒーのように苦く、そして甘い。浮気という罪の味は、今、私の舌に重くのしかかる。夫に見つかったらすべてが崩れ去る。家庭も、子どもたちの生活も、あの日々の微笑ましい写真立ても。けれど、この関係を断ち切る勇気が、今の私にあるだろうか。

 コーヒーカップを持つ手がかすかに震える。その苦味が、舌先を刺すようだ。視線は夫と入り口の方向を行き来し、私の心は綱渡りを続ける。涼介さんが扉を開けてくるか、夫が顔を上げて私を見つけるか、どちらが先だろう。

 思い返せば、最初にカフェで彼と話し始めたとき、こんな事態になるなど想像もしなかった。少しおしゃべりできる相手がいるだけで満たされると思っていた。だけど、火は小さな種火から、やがて燃え広がる。甘い香りに包まれた日常に、まさかこんな焦げた匂いが広がるなんて。

 夫がふと、顔を上げた。その視線はまっすぐこちらを向く。私の心臓は一瞬で凍りつく。目が合った――と思った瞬間、彼はわずかに目を細めた。私だと気づいた? 夫は軽く首をかしげ、ゆっくりと席を立ち始めた。

 逃げ場がない。まるで犯行現場を押さえられたような息苦しさが、胸を締め付ける。

 ドアが開く音がした。振り向けば、そこには涼介さんの姿がある。彼は小さく手を振っている。夫は背後から、私に向かって歩を進める。二人はまだお互いの存在に気づいていない。私は二人の狭間で、どうしようもなく立ちすくむ。

罪の匂いが、コーヒーの香りにまぎれて、濃くなっていく。

 すべてが揃った今、この一瞬が、私の平穏な生活を、決定的に壊してしまうかもしれない。

 私は唇を噛み締める。どうする? この場をやり過ごす方法はあるのか。取り繕えるか、それとも終わってしまうのか。夫が私に話しかけるか、涼介さんが気づくか。その間の一瞬に、私の心は絶叫している。

 「美咲? どうしてここに?」

 夫の声が、私の耳を打つ。声の底にわずかな猜疑心を感じ取る。それも当然だろう、こんな時間に、こんな場所で、私が何をしているのか。いつものカフェとはいえ、夫は私がここに足繁く通っているなんて知らないはずだ。

 私はゆっくりと笑顔を作る。必死で自然な表情を装うが、唇が強張っているのが自分でもわかる。涼介さんはまだこちらに気づいていない。私たちが夫婦だということさえ知らない。今、この場で二人を紹介するなんてこと、できるわけがない。

 「ちょっと家事の合間にコーヒーでも、と思って…」

 声が震えないよう祈りながら、私は夫に応じる。夫はテーブルを見下ろし、一つの椅子に視線を落とす。その席は、さっきまで涼介さんが腰掛けるはずだった位置。何かを察したのか、それとも偶然か、彼はそこで足を止め、しばらく考え込むような素振りを見せる。

 そのとき、涼介さんがこちらに向かって近づいてきた。彼は私の隣に腰掛ける気でいるのか、まるで当たり前のように。私の心は喧騒に包まれる。嘘がバレる、一瞬で。

 私が夫に説明する前に、すべてが露見してしまう。その瞬間を想像するだけで吐き気がする。きっと夫は怒り狂うだろう。私の浮気という裏切りは、彼から家族を奪い、子どもたちの未来までも壊す。

 なんとかしなければ。私はとっさに立ち上がった。そして、夫と涼介さんの間に身を滑り込ませるように立ち塞がる。

 「あなた、今日はお休みなの? 珍しいわね」

 夫から視線を逸らさず、できるだけ穏やかに、日常会話を装う。背後には涼介さんが立っている気配。彼はたぶん、私が話している相手が夫だとは気づいていない。

 夫は目を細めて私を見つめる。まるで真っ暗な部屋で懐中電灯を向けられた獣のように、私は身動きが取れない。

 「ちょっと近くで打ち合わせがあってね。今日は早めに帰ろうと思って寄ったんだ。お前がここにいるなんて驚いたよ」

 夫の声は穏やかだが、その裏には探るような気配が混じっている。私が何か隠しているのではないかと、そんな疑念が透けて見える。

 どうやってこの場を収めよう。私は冷や汗をかきながら、目の前の夫と、背後にいる涼介さんの存在を同時に意識する。

 罪は、昼下がりの光の中で際立ち、コーヒーの香りに紛れながら、じわりと忍び寄ってくる。

 私は、ここで何を選ぶのだろう。これまで積み重ねてきた平凡な日常を守るのか、それとも、甘く危うい関係を貫くのか。

 決断を迫られる、その瞬間。私の心は、張り詰めた糸が切れるように、震えていた。

 わずかに唇を開いて言葉を発しようとしたとき、涼介さんが不思議そうに私の肩越しから夫を見つめるのがわかった。沈黙の時間が耐えがたいほど長く感じられる。その一瞬が、まるで永久に続くかのように。

 昼下がり、コーヒーの香りに包まれた罪は、今まさに暴かれようとしていた。

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