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【短編小説】 雨音に溶ける秘密の約束

 窓ガラスを叩く細かな雨粒が、まるで世界の輪郭を溶かし始めているようだった。梅雨に入ってからというもの、洗濯物は乾かず、重たい空気は部屋中に滲み込んでいる。キッチンの片隅で湯気を上げる白いマグカップを手に、絵里子はひとりソファに腰をおろしていた。

 夫は朝早く出勤し、娘は小学校へ。いつもの平日のはずなのに、心はどこか落ち着かない。その理由はわかっている。窓辺の携帯が、彼からのメッセージを光らせているからだ。

 「今日、会える?」

 短い問いかけ。それだけなのに、絵里子は胸の奥がちくりと疼いた。

 彼――尚樹は、二年前に町内会の集まりで知り合った。初めはただの知り合いだった。けれど、ある日、班長の仕事で遅くまで資料整理をしていた公民館の倉庫で、ふたりはふとした流れで長話を交わし、気づけば夜の11時を回っていた。

 あの時の尚樹の柔らかな声、熱い瞳、そして、帰り際にふと触れ合った手のひらの温もりが、どうしようもなく記憶にこびりついている。いつからこんな関係が始まったのか正確には思い出せない。それでも、あの日以来、メッセージが頻繁になり、二人で近所の喫茶店に足を運ぶようになり、いつしか背徳的な逢瀬を重ねるようになっていた。

 もちろん、これは「不倫」と呼ばれる行為だ。夫もいる、子どももいる。それでも尚樹の存在を手放せない自分がいる。絵里子は自分を責める言葉と、抑えがたい心の疼きのあいだで揺れていた。

 リビングの一角には、家族写真が飾られている。夫と娘の笑顔。彼らは何も知らず、彼女に信頼を寄せている。――それを裏切る行為。

 けれど、毎日の暮らしのなかで、夫から感じる距離感や、いつしか失われたときめきは、雨のように胸中をしとしとと濡らし続けていた。結婚して十年以上が経つ。子育てや家事、パートタイムでの仕事に追われ、会話は実務的な報告ばかり。あの頃の恋心はいつ消えたのか、指で触れれば崩れ落ちそうなほど脆くなっていた。

 この湿り気のある空気を断ち切るように、携帯を手に取る。画面には彼からのメッセージがいくつか並んでいる。最後に会ったのは、一週間前。雨の上がりかけた夕暮れ、人気のない小さな図書館裏の駐車場で、車の中で密やかに言葉を交わした。唇を重ね、互いの存在を確認し合うたび、罪の意識と陶酔が入り混じる。

 そして彼は、あの日の帰り際にこう言ったのだった。

 「次に会う時、大事な話がある」

 その言葉が喉の奥でずっとひっかかっている。大事な話——それは良い方向へ向かうものなのか、それとも別れを告げられるのか。考えれば考えるほど不安が膨らむ。何かが終わる前兆なのか、それとも始まりなのか。胸がざわついてくる。

 視線を落とすと、キッチンには夫の残した朝食の皿がある。慌ただしい朝は終わり、午後にはスーパーへ買い物に行かねばならない。いつもの平凡な主婦としての一日と、秘め事を抱えた女としての午後。そのふたつの顔が、雨音のなかで溶け合う。

 思い切って「会える」と返信を打ち込む指先が、わずかに震えた。するとすぐに返事が来る。

 「14時、駅前のカフェで待ってる」

 駅前のカフェ。いつもの場所だ。カウンター席の隅、曇りガラス越しに行き交う人々を眺めながら、静かに言葉を交わしてきた。二人で過ごした時間は、嘘のように穏やかだった。

 時計を見ると、まだ10時過ぎ。娘が帰宅するのは夕方。夫は今日も残業のはず。時間だけはある。この時間が、まるで花びらのように彼女の前にひらひらと舞い落ちてくる。でも、その花びらは真っ白ではなく、微かに灰色がかった色合いで、触れるたびに指先に罪が滲むようだった。

 12時を過ぎたころ、絵里子は軽くメイクを直し、雨が上がる気配のない空を見上げた。玄関で傘を開くと、冷たい雨粒が肩を濡らす。これから彼と会う。それが幸せなのか、不幸なのか、わからない。

 足元を確かめるように駅前へと歩く。雨はしとしとと降り続け、街路樹の葉から滴が落ちる音が耳につく。カフェの扉を開けると、ほんのり甘いコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。

彼はもう来ているだろうか。

 店内を見渡すと、いつもの席に背中を丸めて座る尚樹がいた。視線に気づき、彼は軽く手を挙げる。その仕草はまるで少年のように無邪気で、けれどここにいるふたりが隠し事を抱えていることは動かしようのない事実だった。

 席に着くと、尚樹は少し険しい表情をしているように見えた。いつも穏やかな笑みを浮かべる彼が、今日は言葉を切り出せないでいる。

 「……大事な話って、何?」

 絵里子は声を潜めて聞く。彼はカップを持つ指先をわずかに震わせ、躊躇うように唇を開いた。

「うん、実は——」

 言葉は、雨音に埋もれるように消えかけた。そのとき、カフェの扉が開く音がした。思わずそちらを振り返ると、見覚えのある人物が立っていた。黒い傘を手にした、その影は、まさか……。

 そこには、絵里子が想定すらしていなかった、夫の同僚である女性が立っていたのだ。彼女はカウンター越しに店員に何かを告げつつ、ちらりと店内を見回した。その視線がこちらへ届くまで、ほんの数秒。しかし、その数秒が永遠にも感じられた。

 絵里子は反射的に顔を伏せてしまう。尚樹も状況を把握したのか、体を微妙にずらしてくる。二人は、こんなところで誰かに見られたらどうなるか、そのリスクを痛いほど知っていた。

 店内は決して広くない。彼女、夫の同僚が、二人の存在に気づくのは時間の問題かもしれない。もし目が合えば、どんな表情をするべきなのか。言い訳の言葉が頭を駆け巡るが、思いつかない。

「ごめん、こんなことになるなんて…」と尚樹が小声でつぶやく。
「いいえ、私こそ…」

 言葉が出ない。雨音は遠くなり、まるで心拍の音が耳の中で響いているようだ。

 夫の同僚は、どうやらテイクアウトを頼んでいるらしい。これ幸いに、長居する気配はない。しかし、もしほんの一瞬でも目が合えば、後日に何か言われないだろうか。夫に怪しまれるかもしれない。

 これまで積み上げてきた日常が、まるでガラス細工のように脆く、割れやすいものだったと痛感する。そのかすかな亀裂を前に、絵里子は息を潜めながら、じっと待つしかなかった。

 尚樹は未だに“大事な話”を切り出していない。今はそれどころではない。

 “早くこの場をやり過ごしたい”という思いと、“彼の話を聞きたい”という思いがせめぎ合う。腕時計の針がじりじりと動き、雨音が遠くで静かに響いている。

 やがて夫の同僚はコーヒーの紙カップを受け取り、再び傘を広げて店を出て行った。その一瞬、ちらりと彼女がこちらを見たような気がしたが、確証はない。息を吐き、緊張の糸が少し緩む。

 「危なかった……」尚樹がかすれた声でつぶやく。

 「ほんと……ね」と、絵里子は微笑もうとするが、その笑みは強張ったままだ。

 そうしてようやく、ふたりは再び向き合う。雨はまだ降り続け、店内の照明が微かにゆらめく。

 「あの、話って……」と促すように言うと、尚樹は再び口を開いた。

 「実は……俺、離婚することに決めたんだ。妻にもう気持ちはない。俺は、君と……本気で一緒になりたい」

 その言葉は、鈍く光る刃物のように胸に突き刺さる。望んでいたはずの言葉なのに、なぜこんなにも痛むのだろう? 絵里子は目を伏せ、テーブルの木目を見つめる。嬉しい? それとも重たい? 再婚なんて現実的なのか。娘はどうする? 夫は? そんな考えが嵐のように押し寄せる。

 「でも……私は……」と、言葉を濁す。家庭を捨てることの意味を考えれば、そう簡単に答えは出せない。

 尚樹は握りしめた拳をほどくように、テーブルの上で手を開いた。その手のひらは、雨音に滲む秘密を包むかのように震えている。

 「焦らなくてもいい。でも、俺は本気なんだ。君が迷う気持ちもわかる。だけど、こんな曖昧な関係を続けていても、いつか傷つくのは俺たちだと思う……」

 曖昧な関係。確かにそうだ。嘘を重ね、隠しながら日常をやり過ごすことは、いつか破綻する。けれど、この関係が壊れてしまうことへの不安も同時にある。なぜなら、この秘密の時間は、灰色の日常をかすかに彩ってくれる小さな光だったから。

 「私……考えさせて。すぐには答えられない」

 それが精一杯だった。尚樹は微笑むような、諦めるような、複雑な表情を浮かべる。そしてコーヒーカップを見つめながら、「わかった」と静かに頷く。

 店を出るころには、少し雨脚が弱まっていた。傘を広げ、二人は並んで歩く。視線を交わさず、短い言葉だけを交わし、駅前のロータリーで別れる。いつもなら別れ際に触れ合う指先が、今日に限っては重なり合わない。

 ひとりきりになった帰り道、絵里子は自分が何を求めていたのか考える。

 もしかすると、ただ日常から逃れたかっただけなのかもしれない。けれど、尚樹は現実を突きつけてきた。共に生きていく道、あるいは決別する道。どちらにせよ、生半可な気持ちでは進めない。

 家に戻ると、湿った玄関の空気が肌にまとわりつくようだった。時計は15時を指している。娘が帰ってくるまで、あと少し時間がある。

 キッチンテーブルに腰をおろし、雨音を聞く。日常はまだ、ここにある。コンロの上には朝の皿が残り、リビングには家族の笑顔が並ぶ写真がある。

 「私は、どうしたいんだろう……」

 呟いた声は雨音に溶けて、消えていく。

 あのカフェでのやりとりを思い出す。心の中には、尚樹が差し出した道と、いま自分が立っている場所の二つがある。どちらを選んでも、雨は降り続けるのかもしれない。

 傘を差して進むのか、それとも雨に濡れながら歩み続けるのか。

 夫の顔、娘の笑顔、尚樹の真摯な瞳。どれが嘘で、どれが本物なのか、もう境界線が曖昧だ。

 けれど、このままではいられない。

 日が暮れ始めるころ、娘が帰ってくる足音が聞こえる。ガチャリとドアが開くと、「ただいま」の声が響き、家の中に日常が流れ込む。絵里子は笑顔で「おかえり」と答え、娘の濡れた傘を受け取った。その瞬間、彼女は決めたわけでもないのに、自分がまだ答えを出せずにいることを痛感する。

 尚樹が言った「離婚」という言葉は、重く、遠い。それは現実を丸ごと塗り替える行為だ。そんな勇気が自分にあるのか。それとも、もう一度夫との関係を見直すべきなのか。

 傘の先から雨粒がぽたぽたと落ちる。その音は、まるで彼女に残された時間が限られていることを告げているかのようだ。

 夜になり、夫が帰宅する。食卓にはありきたりの献立と、いつもの会話。

 雨音は遠くで続いている。どこにも行かないまま、静かに日常を包み込んでいる。

 絵里子は夫の背中を見つめ、その向こうに尚樹の影を思い浮かべる。どちらにも、確かに情がある。どちらも、失えば痛みを伴う存在だ。

 その夜、布団の中で、彼女はじっと目を閉じる。

 雨音が耳元でささやく。「秘密の約束」をもう一度交わすのか、それとも手放すのか、と。
 決断は、まだできない。けれど、彼女は知っている。この雨は永遠に降り続けるわけではない。いずれ晴れ間が訪れ、そのとき、彼女は傘を畳むかもしれない。

 雨音に溶ける秘密の約束は、今も心の中で揺れている。

 いつかこの雨が止む日、彼女はどちらの道を歩き出すのだろう。
 答えはまだ、湿った空気のなかに浮かんでいるだけだった。


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