私たちは神から分離したくて、罪を捏造した!
こんにちは。ふりだやです。
奇跡講座のテキストの一部を、自分の勉強のために、わかりやすくまとめています。(^_^)
今日は、26章過渡期、Ⅶ癒しの法則 、7〜8段落目になります。
まず最初に、ここでのポイントは、「罪」と「誤り」というものをしっかり分けて考えることが大切になります。
これらの違い、皆さんはどう考えるでしょうか?
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私たちは、日常では、「罪」と「誤り」というものをそれほど区別していません。どちらも似たようなものです。
しかし、奇跡講座では、その二つを全く違うものとして捉え、罪は「もう取り返しがつかないもの」と考えられています。
つまり、それはいくら償っても、決して完全には許されないものなのです。
そして、私たちが普段、この世を地獄に感じ、苦しんでいるのは、そこに本当の苦しみがあるのではなく、実はその「罪」という概念によって苦しんでいるのです。
一方、奇跡講座では、私たちは間違いを犯していても、それは取り返しのつかないもの、つまり罰せられるべきものではなく、「ただの誤りである」と捉えていきます。
つまりそれは、いつでも訂正できるのです。
いつでもキャンセルできるのです。
もともとそれは無かったものなので、
それは無かった....
もともと誰も、何もしていなかった....
なので、聖霊の力を借りさえすれば、「した!」と思って後悔していた誤ちを、私たちは完全に取り消すことができるのです。
これが、奇跡講座の赦しであり、日本語の翻訳では、「ごんべん」の許しではなく、恩赦の赦という方の漢字を使って、区別しています。
私たちが、決して取り返しのつかないという意味の「罪」という概念で、自分の失敗を考えるとどうなるでしょうか。
どんなに償おうと努力しても、完全には許されない私たちは絶望感に襲われ、罪悪感を抱き続けることになります。
でも、それって、全てが愛であり、全てが赦される、神の愛と矛盾していませんか?
私たちは、そこで、神を一元性として捉えることができなくなり、神を私たちの相対界の概念に合わせた形にしてしまいます。
つまり、最終的には神は私達を罰するだろうと錯覚するようになるのです。
そして、そのおかげで、神から分離することができるようになるのです。
少し話は変わりますが、皆さんはアダムとイブの話をご存知でしょうか。
この話は、旧約聖書の創世記、また、イスラム教のクルアーンにも載っていますが、奇跡講座の視点から見てみると、この話も大変興味深く思えます。
アダムとイブは天国であるエデンの園で、神から愛され、すべてに満足し、しあわせに暮らしていました。
しかし、ある日、蛇にそそのかされて、神から食べてはいけないと言われていた知恵の実を食べてしまい、エデンの園を追われてしまいます。
知恵の実とは、善悪を理解できるようになるという実ですが、それによって彼らは二元性の世界に陥ったとも言えます。
彼らはその実によって、知恵を付けたかも知れませんが、それと引き換えに、真実を見る叡智の力や天国を失ったのです。
同じように私たちも、自分が神から分離したくて、分離したものの、神に罰せられると恐れ、楽園から追放されたと思い込んでいます。
本当は、神の愛に今も包まれているのに、アダムとイブと同様に、私たちも二元性の夢の世界に入ったのです。
こう考えると、知恵の実は、幻想の夢を見始めた睡眠薬とも言えます。
創世記には、知恵の実を食べたことで、ヒトは永遠を失い、病気や飢えに怯え、出産に苦しむようになったと記されています。
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今日のまとめです。
私たちは、ほんとうには罪は無いのに、自分には罪がある、と考えてしまっています。
しかし、それは別の見方をすれば、私自身が神から分離したいと望んでいるからなのです。
だから罪を捏造したのです。
もちろん、実際には、一体である神から分離などできるはずもありません。
なので、私たちはただ分離の夢を見ているだけで、本当は今も天国にいます。
そこには神しかいないのです。
しかし、夢の中の神は、私たちを罰する恐いイメージの神となってしまいました。
「罪」というものは存在しません。
それは神との一体性に反するものです。
なので、私たちはただそれを思い出して、聖霊とつながり、誤りを訂正し、赦しさえすればいいのです。
最後まで読んで下さってありがとうございました。
兄弟であるみなさんと共に、これからも学びを深めていければうれしいです。
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