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人間と自然🍃💕

Translation in English below!!

「生きるということは時間を紡ぐということです」


 なんと美しい言葉でしょうか。これは、「科学者が人間であること」という生命誌研究者の中村さんが書いた本の中で見つけた素敵な文章です。中村さんの本で一貫したメッセージというのは、「人間は生き物であり、自然の中にある」ということです。この本は、今まで感じてきた異様な違和感や今までの私の直感的な選択にどこか理由づけをするきっかけを与えてくれました。私は基本的に、嫌と思いながら我慢して何かをしたり、直感的にやりたいと思うものをやらずに我慢するといったことができないのですが、(できないというか、我慢したこと人生であんまりない笑) 、最近になって、自分の直感的な決断や、心で感じる違和感に共通するもの、軸となる部分が見えてきたように思います。それが今回のテーマにつながる「人間と自然」です。
 前回のブログでは心のサステイナビリティというテーマで、利便性ばかり求めすぎず、自分のいる瞬間、環境を味わい、自分が触れるもの、口にするものに注意を向けることが心の健康につながるのではないかというお話をしました。人間の利便性の追求、豊かさの象徴としての「お金」の誕生は、自然離れする人間の生活と密接した関係があります。そんな社会にいるといつも忙しなく効率性を模索するあまり自分が置かれた環境や一瞬一瞬を十分に吟味できないということを書きました。
 今回は自然と自分自身のつながりを取り戻したいという気持ちで、この記事を書こうと思いました。記事の冒頭に引用した本の「科学者が人間であること」の文中の表現等を少しずつ引用しながらこの記事を書き進めたいと思います。私の記事は誰かに向けてというよりかは自分に対しての備忘録的な意味を含めて残しているのですが、これを見て「私もそう感じていた!」と言語化を導くきっかけになったらいいなとも思っています。

私の中の直感と結びついたもの


私は東京生まれ東京育ちの俗にいう「都会っ子」です。高層ビルや満員電車、ゾンビのような顔をしたサラリーマンや学生を見ながら育ってきたわけですが、物心ついた時からどこか東京という場所に対して違和感を感じていました。とにかく自分には合わないという感覚です。それが顕著に現れたのが、自分が高校生の時にオーストラリアのゴールドコーストに1年間留学に行って帰ってきた時でしたが、いわゆるリバースカルチャーショックに苦しみ、3ヶ月ほど、鬱とまではいきませんが辛い思いをしていました。最近になって自分がHSPの性質に近いものを持っていることに気が付き、自分に合った環境というのがわかるようになってきましたが、当時の私は自分が生まれ育った場所に属すことができず、困惑の感情でいっぱいでした。当時の感覚として覚えているのが、東京にいる人間に魂を全く感じないということでした。そして自分自身も生きている感覚がしませんでした。心臓は動いていて息はしていても、自分の魂がどこかへ行ってしまっているようで、周りにはこんなにも周りにたくさん人がいるのに、誰たりともつながりを感じない。いつもどこか孤独な感情を抱いていました。
大学を決める時には、とりあえず日本を出たいと海外で勉強する方法を模索しましたが、ピンとくるところが見つからず、最終的に今通っている別府の大学への進学を決めたわけですが、その時は日本は出れなくても東京は絶対にでたいという一心でした。東京出身で、別府の大学に通っているという話をすると、みんなが口を揃えて「なんで!?」と問いますが、きっとそれが普通の反応なんだと思います。モノで溢れ、利便性が高く、なんでも充実しているというのは一見ポジティブな印象を与えますが、今考えると私にとって真に重要なことではなかったのだと思います。私自身が10代の時から無意識に欲していたことは、本来のつながりや「生きる力」を感じることだったんじゃないかと今になって辻褄が合うような。私にとってもっと大事だったのは、日々の自然と人間との交流、すなはち胸いっぱいに空気を吸うこと、何も考えずに空を見上げてぼーっとすること、真のつながりを感じる人々と心で会話すること、地元で消費された食物をいただくこと、それらに対して感謝の気持ちを胸いっぱいに感じることだったのだと思います。なんといっても、私たち人間は「生き物」ですから、これは人間なら誰しも必要な要素だと思います。
大学に入学してからフィンランド留学も果たすわけですが、この時自然とのつながりの大切さをより深く実感することになります。書き始めるといつも長くなってしまうので、これについてはまた別の記事で書こうかなと思います笑

自然と離れることで失った多様性

この東京という場所に対しての違和感は、中村さんの言葉を通じてさらに明らかになりました。中村さんは本を通じて、「人間は生き物である」ということを主張し続けるのですが、人間は生物と同様に、多種多様である(べき)なのだと言います。しかし、この社会は「均一性」を求め、さらに東京への人口の集中により人々が一様になる、そして「多くの情報の発信源が東京であれば、社会としての価値観や生き方の選択が東京で決められてしまう」と中村さんがいうように、一箇所への人口集中によって画一された基準が生まれ、それに人々が従うことになるのです。これも私が生き苦しさを感じていた一つの理由かもしれません。もはや人生の正解が一つしか与えられていないような。その道から外れていたら社会不適合者というレッテルを貼られ、枠にはまらなければ生きていくのが苦しい世の中です。東京は他の地域に比べ、人々の多様性の面では富んでいる印象がありますが、それは果たして本来の意味での多様性と言えるのでしょうか。さらに、価値観の基準、経済の基準、さまざまな基準が東京で作り出されているということは否めません。
自然から離れ、均一性を重要視し、人間が自然を支配するという関係性を構築することは、人間が本来生き物として発揮できる力を抑圧することにもつながると思うんです。グローバル化によってさまざまなシステムが統一化されていますが、その地に根ざしたシステムを構築するということが吟味されてもいいのになと思ったりもします。科学と自然のいい調和関係が生まれたら1番いいですね。

自然離れしつつある私たちの生活を見直す

もはや現代の私たちの生活は自然と暮らしがほぼ完全に分離した状態にあります。テレビのニュースをなんとなくぼーっと視聴し、暇があれば携帯を触って、ゆっくり食べている時間なんてないからコンビニのご飯を食べて、風邪をひいて仕事を休んだら迷惑がかかるから薬を飲んでなんとかやり切る。わざわざ文字に起こすと変な感じがしますが、これが現代の私たちのなんの変哲もない、普通とされる生活です。私たちはわざわざ「自然」に行くくらいですから、もはや「自然」に非日常性を感じるほど。自然との交流とは程遠い生活を送っています。その一方、化学製品を使用しない「オーガニック」のものや、自然療法と言ったものはいつもどこかいつも別のカテゴリーとして設置され、人々が疎遠するような対象として扱われることが多くあると思います。(西欧ではオーガニックやビーガンの選択が容易になりましたが、日本ではいまだに「気取っている」という暗示を含んだ使い方がされている気がします)また、自然と一体化した生活をしている先住民の暮らし、自然の摂理に任せた暮らし方は、どこか異質的なものとして扱われ、いわゆる「普通」とされる私たちと同等の敬意の念は注がれていないように思います。なんでも科学で証明できるや合理性のあるものにのみ「正」の勲章が与えられ、証明できないもの、合理性に欠けているものは「誤」として認識されるというのが今の社会のリアルです。しかし、「真実」「正」とはそもそも一体なんでしょうか。誰が決めたんでしょうか。私たちは何をもってそれを「正」とみなすのか。その尺度は数字で表現できる「科学」、すなはち西欧諸国からの強い影響によって構築されたものが、基盤になっています。もちろん、科学は私たちの生活には欠かすことができません。しかし、科学ばかりが正当化され、科学のみで語ることのできないものに目を向けないということはあってはならないと思うのです。私たちが当たり前に使っているものさしが、社会で構築されていること、画一された価値基準によって多様な人間の在り方が失われてしまったこと、よくよく考えなければなりません。そして、自然と私たちの関係性を問いただすことは、今世界で起こっている不条理をもう一度問いただすきっかけにもなると思います。今社会で起こっている諸問題は、画一された価値基準、人間の自然に対する支配が根底にあることが多いように思うからです。
中村さんも本の中で「死物化」という概念を紹介し、科学の発達、西欧社会の影響を受け、「科学が自然を死物化し、人間の心を居所不明にしてしまった」という話をしています。

客観性の確立とその優位性

中村さんの本で引用されている哲学者の大森さんの言葉をここでもそのまま引用したいと思います。彼は、現在の科学を基本とした世界観についてこのようにまとめています。

1.「世界の究極の精密描写は、幾何学運動学的描写である。そしてこれが世界の「客観的描写」である。2,それに対して、色、音、匂い、手触りなどの描写は、客観的世界そのものの描写ではなく、それが個々の人間の意識に映じた「主観的」世界像の描写である。
これをもとに、小林さんは、
主観と客観を対置する二元論的世界像が生まれ、客観的な科学的思考を進んだものとして捉えるようになる。そして、これが人間の死物化が起こるメカニズムであると話します。
つまり、客観性で語ることのできる科学は進んでいて、日常的に得られる感覚を通じた理解は遅れたものとして受け止められることによって、自然、人間を客観的事実によって捉え、モノに対する理解と同様の「死物化」を招いたというのです。人間の内から湧き上がる神秘的なパワーや自然から得た知恵、客観的事実で証明できないものは除外されてしまうということです。これは前述した、社会で構築された「正」の概念ともつながってきますよね。
「死物化」という言葉はこの本を通じて初めて耳にしましたが、私が感じていた東京で働く人々の心が死んだ様子というのは、もしかしたらこの「死物化」のメカニズムと強く関連づいているのかも、と思いました。

終わりに


さて、かなり長い記事になってしまいましたが笑 
私は科学を全否定しているわけではありません。もちろん、科学によって私たちの生活が豊かになった面も数多くあります。しかし私が考えるのは、自然と科学の調和が十分に保たれていないということです。私たちの心の問題という個人の問題から、環境の問題や貧困の問題といった社会的な問題まで、現代人が抱える多くの問題が、人間と自然のアンバランスな関係性から生まれているのではないかと思うのです。こんなに偉そうにいろんなことを書いていますが、私もここ数週間で言語化を通して発見したことなので、この発見を通じて自分がどんなふうにライフスタイルを変えていきたいのか、というところは今後さらに深掘りしていきたいテーマです。
とっても長くなりましたが、(しかもかなり読みづらい内容だったかな…)ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます!
また次の記事でお会いしましょ~う!

"The act of living is the act of weaving ephemeral moments together"

What a beautiful phrase this is. I found this lovely sentence in the book "Being Human as a Scientist" by life scientist Nakamura. The consistent message throughout her book is that "humans are living creatures and part of nature." This book provided me with a reason to reconsider the sense of discomfort I've always felt and the intuitive choices I have made until now. Generally speaking, I am not the type of person who can endure doing something I dislike or refrain from doing something I feel compelled to do. (In fact, I've rarely done any of them in my life lol) Recently, I feel that I have begun to see a common thread, a core aspect, linking my intuitive decisions and the discomfort I feel in my heart. This connects to the theme of this article: "Humans and Nature."

In my previous blog, I discussed the theme of "mental sustainability," suggesting that an excessive pursuit of convenience may undermine our ability to fully appreciate the moments and environments we inhabit. I emphasized the importance of being mindful about what we engage with and consume, highlighting its impact on our mental well-being. The elevation of "money" as a symbol of human convenience and prosperity correlates closely with our increasing detachment from nature. Living in such a society, I often feel rushed, constantly striving for efficiency, which leaves little room to fully immerse myself in my surroundings and cherish each moment. With this article, I aim to reconnect with both myself and nature. While these writings primarily serve as a personal record for introspection, I hope they resonate with others who share similar sentiments, offering them a framework to articulate their own thoughts.
I'd like to continue drawing insights from Nakamura's book to further develop this article.

What Resonates with My Intuition

I was born and raised in Tokyo, a so-called "city girl." Growing up among skyscrapers, packed trains, office workers and students with dead faces, I have always felt a deep-seateddiscomfort living in Tokyo. It simply didn't resonate with me, and I struggled to find a sense of belonging. This feeling intensified upon my return from a year-long exchange program in Gold Coast, Australia, during my high school years. The adjustment back to Tokyo's lifestyle hit me hard, plunging me into a challenging three-month period of what we call reverse culture shock. Reflecting on it now, I realize I may possess traits akin to those of a Highly Sensitive Person (HSP). This newfound understanding has helped me recognize the type of environment that truly suits me. However, at that time, confusion clouded my thoughts as I grappled with not feeling at home in the very place I was born and raised.

Living amidst the hustle and bustle of Tokyo, I often found myself yearning for something more—something that resonated deeply with my soul. Despite being surrounded by countless people, I felt no connection with anyone and was always left with a sense of loneliness. This internal struggle led me to contemplate my future and eventually choose a university in Beppu, far from the bustling streets of Tokyo. When I mention that I’m from Tokyo and now studying in Beppu, people often react with a puzzled "Why!?" I guess it's a natural response. Tokyo offers abundant job opportunities, convenience, and modern amenities, which may appear appealing at first glance. However, looking back, these factors weren’t what truly mattered to me. Reflecting now, I realize that since my teenage years, what I've craved unconsciously are genuine connections and a sense of vitality. I've come to value daily interactions with nature and people—breathing in fresh air, gazing at the sky, enjoying locally grown food, and feeling deeply connected and grateful for these experiences. It felt like the right step towards finding a place where I could truly thrive. After all, as humans, we are living beings.


The Lost Diversity from Separation with Nature

My discomfort with Tokyo became even clearer through Nakamura's words. She asserts that humans, like other living beings, thrive on diversity. However, society's inclination towards uniformity, particularly the concentration of population in Tokyo, tends to homogenize people. As Nakamura points out, "When most information originates from Tokyo, societal values and lifestyle choices are heavily influenced, leading to standardized norms." This might explain my sense of suffocation as if there's only one correct way to live. Deviation from these norms often labels one as a societal misfit, making life outside these boundaries challenging. While Tokyo appears diverse compared to other regions, is this diversity genuine? It's undeniable that many standards of values and economic policies are shaped in Tokyo. By distancing ourselves from nature and establishing dominance over it, we risk stifling our innate potential as living beings. In the context of globalization, which has standardized various systems, there is value in embracing locally rooted approaches. Ideally, we should aim for a balanced relationship where scientific advancements complement rather than dominate nature.

Reevaluating Our Lives Detached from Nature

Modern life has almost completely separated from nature. Mindlessly watching TV news, endlessly scrolling through our phones, relying on convenience store meals due to time constraints, and resorting to medication to cope with work despite illness—when articulated, these behaviours may seem peculiar, yet they constitute the norm in contemporary living. We even find nature extraordinary that we make deliberate efforts to "purposely" visit it. Meanwhile, "organic" products and natural remedies, which don’t use chemical products, are often categorized separately and somewhat perceived as nonordinary. (In the West, organic and vegan options have become more accessible, but in Japan, they still carry a connotation of "pretentiousness"/wannabe.) Furthermore, the lifestyles of indigenous peoples, who coexist harmoniously with nature and adhere to its principles, are frequently exoticized and undervalued by society. Only concepts validated by science and rationality are deemed "correct," while those that lack empirical proof or logical grounding are dismissed as "wrong." But who defines "truth" or "correctness," and on what basis? Our metrics are deeply rooted in scientific principles and heavily influenced by Western norms.
While science undoubtedly plays a crucial role in our lives, we must not exclusively validate scientific perspectives while disregarding aspects of life that transcend scientific explanation alone. (This will be explored further in the upcoming section!) It is imperative to reassess the socially constructed nature of these metrics and how standardized value systems have stifled the rich diversity of human experience. Reexamining our relationship with nature can prompt us to reconsider the global absurdities stemming from standardized values and humanity's exploitation of nature.
In the following section, I will delve into the concept of "reification," as discussed by Nakamura, exploring how the progress of science, shaped by Western influences, has "reified nature and displaced human hearts", as she states.

The Establishment and Superiority of Objectivity

I directly quote Philosopher Omori’s words, as cited in Nakamura's book, which  succinctly summarize the current scientific worldview:

  1. "The ultimate precise depiction of the world is geometric and kinematic. This is the 'objective depiction' of the world.

  2. In contrast, descriptions of color, sound, smell, and touch are not depictions of the objective world itself but representations of the 'subjective' world image reflected in individual human consciousness."

From this, Omori argues that the dualistic worldview, contrasting subjective and objective realms, emerged with the notion that objective scientific thinking represents progress.   Consequently, this led to the "ratification" of humans, where humans are objectified. Inner mystical power and wisdom derived which defy objective proof, are wholly disregarded. This brings us back to the earlier query regarding "what is deemed correct." The term "reification" was new to me, and I wonder if the soullessness I sensed among Tokyo workers was linked to this mechanism.

Lastly…


This article has become quite lengthy, haha. I am not entirely denying science, of course, given its numerous contributions to enriching our lives. However, I believe there's an inadequate balance between nature and science. From personal mental health issues to broader societal challenges like environmental issues and poverty, many of today’s problems stem from the strained relationship between humans and nature. Despite writing extensively about nature and human interaction, I'm still exploring these ideas myself. I don't yet have all the answers on how to shift my lifestyle closer to nature or how society can reevaluate its relationship with the natural world. This journey is still new to me. It might have been a lot to read, but if you've made it this far, thank you so much for taking the time! I'm open to discussing these topics further, so feel free to message me with your thoughts. I hope your day turns out beautifully today! ;))

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