化け猫
「こないだヒデの弟に久しぶりにバッタリ会ったよ。」
「ノブに?」
「うん。登校日だったのかな。ランドセルちっちゃくなってた。身長も抜かれちゃったかも。」
「6年だからな。背の順、一番後ろなんだって。」
坂を登ると、鳥居から一番近い自動販売機に自転車を並べる。
工藤はいつものようにレモン味の清涼飲料水のロング缶のボタンを迷いなく叩いた。その手の甲に汗が弾けて、傾き始めた西日を反射していた。
重たい缶が取り出し口に落ちる音を聞きながら、小銭を入れる。炭酸飲料。真っ赤にプリントされた+150mlの文字が、大山の乾いた喉を誘う。たくさん入っている方にしよう。どちらを選んでも値段は同じだし、余れば隣の男が飲むだろう。
工藤はもう、缶の縁に口を付けている。
ここ何日も茹だるような暑さが続いていた。
「その時にノブに聞いたんだけどさ。ここの神社、最近じゃ、出るスポットになってるらしいよ。」
一面に蝉の声が降り注ぐ一方で、草むらからは鈴虫が鳴き始めていた。
二人は大銀杏の足元に転がる蝉を避けながら、寂れた境内の階段に座った。
誰もいない黄昏時の神社。
怪談話にはもってこいのシチュエーションだ。
「花火の日になるとね、」
「わー!待って。ちょっと待ってよ。俺、心霊スポットとか、そういうの苦手なんだけど!」
「ヒデ。声。近所迷惑。」
夏の終わりには、2つ隣の市で花火が上がる。
それが、小さいながらもここから綺麗に見える。
ここは、花火の当日だけ、地元で育った大人だけが知る、穴場のデートスポットになるのだ。
「ごめん、だってさ…なんで怖い話をその現場で語るんだよ…翔、勘弁してよ…。」
すっかりそういうモードに入ってしまったのか、自称180cm(たぶん数ミリ足りない)の大男が背後を何度も振り返ったり、プルタブを開けた時の炭酸の音でビクッと震えたりするので、大山は笑いを堪えながら続けた。
「花火の日になると、この辺りには化け猫が出るんだって…。」
境内の裏手の林からは、猫の鳴き声、何かをピチャピチャと食べるような音、そして時折、人間のうめき声や、悲鳴が響いているのだという。
しかし、肝心の猫の姿はどこにも見当たらない。
おそらく、花火によって一時的にひび割れた結界の隙間から、人食いの化け猫が入ってきて、境内の周りで次々に人間を襲っているのだ。
その姿を見たものは、二度とこちらの世界に戻っては来られない。
だから、花火の日には、絶対に、神社に立ち入ってはいけませんよ。
「だってさ。」
工藤は黙りこくったまま、最後のひとくちを飲んでいる。
情報の確かさは、その噂話に神妙な面持ちで大きく頷き賛同する教師たちの姿、だそうだ。
大人は何でも知っている。
しかし、化け猫を見た者が二度と帰れないなら、そんな話が出るはずもない。
そんな矛盾点には、小学生では気が付かないのかもしれない。
過度にイチャつくカップルは、子どもからしたら、ただの変質者だ。
なるほど、子どもたちを真夏の浮かれた花園へ近づけないよう、上手く作られた与太話だと、小学生からその話を聞いた大山はいたく感心したのだった。
「ノブに心配されちゃったよ。はは。」
「待って。兄ちゃん、ノブからそんなの聞いてないし、心配もされてないんだけど!」
動揺した工藤の一人称が「兄ちゃん」になってしまったので、大山は飲み物を吹き出しそうになった。
「だって、心配いらないでしょう。」
「なんで?大人は襲われないのか?あれ、高2って妖怪的には大人扱い?俺は背180cmくらいあるから大人に見えなくもないか。お前は170あるっけ?ない?だからノブに心配されたの?」
「え?背が、何だって?」
「ごめんなさい。」
「もしかして、本気で怖がってるの?」
「割と、うん。巻き込まれたら嫌じゃん?結界って割れたら見えたりしねえかな。」
大真面目な顔をしているが、君、花火の日に神社に来たことがあったろう。
呆れつつ、そう言いたいのを我慢して、気がつくまで怖がらせておくことにした。
「じゃあ、今日、夕飯食べたらうちに泊まりに来る?」
「うち来て!母ちゃん夜勤でいないから、よろしくお願いします!」
「声がデカいってば。」
どうせカップルがイチャついてるんでしょ。化け物だとか神隠しだとか、子供騙しだよ。
でもさ、あそこでそういうことすると、絶対、蚊に急所刺されまくりだよ。ふふふ。カブトムシ捕りに行った時、めっちゃデカい蚊がいっぱいいたから。翔くん、気をつけてね。
と、工藤の弟の口から聞いた時には、小学生でも、ませてる子なら薄々気づくものかな、くらいに思ったものだけど。
「まあ、このくらいの方が怪談話のし甲斐はあるか。」
「うわ、俺たち、気づいたら蚊に刺されまくってねえか?この!クソッ!」
「ねえ、ヒデ。俺が行くまでにちゃんと部屋片付けといてね。聞いてる?」
大山は、パチンパチンと脛を乱打する男に代わって飲み干したアルミ缶を拾う。
先刻より少し暗くなった鳥居の向こう側で、いつの間にか誘蛾灯が点っていた。