遠雷
「マージで可愛いから見てみろって!」
たまんないんだよなあ、お釣り渡すときに必ず顔見てニコッてしてくるんだよ。オレだけにじゃなくてさ、みんなにやるんだよ。態度悪いオッサンとか、長話のおばあちゃんとか、分け隔てなく!本当にいい子だよなあ!そう思わねえ?
俺が知る限り、入社して以来、6年連れのいない同僚は、早口でそれを言い切ると、ハァーッとか、クゥッとか、声にならない声で感情の高ぶりを噛み締めているようだった。
息の白さに透けた横顔が、頬から首まで紅潮している。
「マフラーしねえの?寒くない?」
「顔、覚えてもらいたくって!ね、ね、ちょっと寄るけど付き合って!コーヒー奢るから!」
「はいはい。」
明るすぎる照明に吸い込まれるように店に入って行く男の後ろ姿を眺めながら、吸い殻入れを探して火をつける。
「はぁ、寒…。」
一本吸い終わる頃には、彼がレジの女に興奮した様子で話しかけているのが見えた。レジの女は同僚の言うとおり綺麗に笑う。左右対称だ。
何がいいんだか。俺は、俺だけに笑ってくれる子がいいと思うけどね。
足元の少し欠けた車止めに小さな染みがポツリとできる。
金属のポールに押し付けられて火を消された俺の吸い殻は、指から離れるとすぐにシケモクの山に馴染んだ。
軽やかな電子音とともに帰ってきた同僚が何か言い出す前に声をかける。
「雨、降ってきたから、もっかい行って傘買ってくれば?」
「そうする!ついでにお前のも買ってくる?」
「要らない。うち近いし。そこまで入れて。」
待っている内にアスファルトはすっかり黒ずみ、遠くで雷が鳴って、今度はドアの開く音が聞こえなかった。
閉じたガラスと開いた傘のビニール越しに、こちらを見ている女と目が合う。
それに気づかない同僚は、買ったばかりの白い傘の細い柄を力いっぱい握り込んで、彼女への称賛の嵐を、明後日の方向に飛ばしている。
鼻に皺が寄って、そのあと気が抜けたように少しだけ眉尻が下がる。その時に唇の右端が上がって、同じ側に小さな笑窪ができる。
俺には、それがもう、見ていなくてもわかる。
「コーヒーちょうだい。」
「はい。でさ、見てたんだろ?どうだった?連絡先渡してもいいと思う?」
同僚が目をやった先の女は、また綺麗な笑顔を振りまいて忙しなく働き始めていた。
俺はひとつ大きくあくびをしたあとも、女から目を離さなかった。
「どうだかね。」
やめときな。
ちっとも脈なんて、ない。