早とちり
初夏、執筆に行き詰まり、宿をとった。
行き詰まったと言っても、生みの苦しみというような大層なものではない。ただ、元来、呼吸をするように言葉が内から溢れてくるタイプではないのだ。
海岸沿いの平地に建つ古宿は、その立地から窓いっぱいに水平線が見渡せる造りになっていた。
壮観な景色に、窓を開けて目一杯潮風を吸込みたかったが、畳の真ん中の座卓に置かれた『虫が入るため、窓を開けないでください』の注意書きを見て我に返り、食事の後に海岸線を歩くことにした。
堤防沿いの道はLEDの街灯が煌々と光り、月は雲に隠れ、少し前に日が暮れたところだというのに、海側は波音の闇があるばかりだった。
あまりの暗さに視線の定まらない中、ふと暗闇から懐かしい歌が聴こえてきて、足を止める。
こんな真っ暗な砂浜に降りて、波がどこまで寄せてくるかわかるものだろうか。
「そこに誰かいるのか?」
「うん。いますよ。こんばんは。」
波を蹴るような音と、明るい調子の声が返ってくる。
「もう夜になるのに、こんなに暗い海で何を?」
「心配しなくても大丈夫だよ、僕、地元の人間だから。今は大体満潮で、これ以上に水位が上がることはまれううわあああ!」
バシャンと水面を強く打つ音がして、慌てて砂浜を駆け寄った。
「大丈夫か?」
「あはは、また波に足取られちゃったよ。僕、本当におっちょこちょいで。」
冷たいでしょ。ごめんね、おじさん。と話す調子から、声変わりしてそう幾年も経たない歳のようだ。
「君、親御さんは?」
「近くにいるよ。ねえ、見てよこれ。ココア買おうとして、おしるこのボタンを押しちゃったの。」
ちゃんと気をつけなさい、人の話はよく聞きなさいって、いつも母さんに言われるんだ。
呑気な声とは裏腹に、掬い上げた腕は、細く、冷たかった。
「おじさんこそ、ぼーっと海眺めながら、何を考えてたの?」
「仕事に疲れてね、少し気分転換だよ。」
「ふーん。僕はね、新盆だから来たんだ。ここいらは本当は8月なんだけど、母さんが元々東京の人だから。」
暗い海だ。触れるほどの至近距離にいるのに、表情がよく見えない。
波打つ度に、膝に飛沫がかかる。
「そうか。なあ、さっきの君の鼻歌、随分古い曲じゃないか?お母さんに教わったのか?」
「そうなの?」
「ああ、俺が君くらいの時に流行った曲だから20何年…古すぎて、今の若者じゃ、逆に時期とかわからないか。懐かしいな。」
「そんなに経つんだね。僕、好きなんだ。明るい曲調なのに、物悲しい歌詞が。」
子どもながらに、感傷的なものの良さがわかるんだなと、俺は不思議な親近感を覚えかけていた。
「水から上がろう。ここじゃあまた転びそうだし、体も冷えてる。」
「もう帰るよ。」
「送ってこうか。」
「迎えが来るから、平気だよ。ねえ、さっきは助けてくれてありがとね。今年はおじさんに逢えてよかった。」
「そりゃどうも。」
ならせめて砂浜まで、と手をとった。
海に帰っていく波が、足元の砂を次々にさらっていくのに逆らって、足を踏み出す。
「そういえば、君、いくつなんだ?名前は?」
「おじさんと同じくらいかな。友だちになってみたかったよ。親友とまではいかないかもしれないけどさ。」
一度強く、握り返された手が緩む。
「え?」
足の甲にかかる、この海の水のように、冷たい手が。
「君、危ないから、ちゃんと手を、」
「ねえおじさん、仕事に困ってもさ、生きてればなんかいいことあるからね。たぶんだけど…」
「おい、早とちりはやめてくれよ。俺はそういうのじゃ…」
言いかけて振り返った先には、月明かりで白く光る線が、凪いだ水面に一筋引かれているだけだった。
はあ、と大きな溜め息が出る。
彼の掌を掴んでいたはずの手には、いつの間にか、季節外れのスチール缶が握らされていた。
「励ましてくれたのか…勘違いだっての。人の話を聞けよ、全く…」