クーラー
『へー。あんなに気強いのにね。』
「そこがいいんだって。義兄さん、物好きだよね。」
『ドMの人だ!』
「元カレのくせにそういうこと言う?」
『小学生の時の話だろ!』
大体アレは、彼氏とかじゃなくて、ほぼ舎弟だし。おまけに2週間で一方的に解雇されたんだって。
という工藤の恨み節まで含めて、この流れは姉が話に出る時のお約束になっていたが、この度、姉の結婚が決まったので、今のを最後にめでたくお蔵入りだ。
「それで、ドレスの試着に付き合ったんだけど、ふざけて俺にもドレスあてたら双子みたいになっちゃってさ。義兄さんの笑いが止まらないわ、姉ちゃんはそれにキレるわで。」
『大丈夫かよ。』
「義兄さんは叱られて本望でしょ。そこは物好き同士、よろしくやっといてもらわないと。」
『物好き、ねえ。』
「何?」
『翔子ちゃんのウエディングドレス、アタシも見たいわ。』
突然返ってきた気色の悪い声が、暑さでたるんだ俺の毛穴を収縮させる。
「やめてよ、鳥肌立つ。姉ちゃんのしかないよ。あともっと声落として。」
隣の部屋の姉に勘付かれると厄介だと、耳にタコができるくらい言っているはずなのに、コイツはいつも声がデカい。
『でも、似てるんだろ?』
「たぶんだけど、替え玉挙式できる。」
スピーカーから突き抜けた大笑いで、机が震えた。だから静かにしろって。
工藤を叱ろうとしたら、ノックもなしに部屋のドアが開いて、話題の中心人物が入ってきてしまった。
「翔、お母さんがご飯できたって!」
『あ、百合姉、結婚おめでとうございまーす!』
「どうもありがとう。」
『大山から何になるの?』
「山下。」
『大して変わらないじゃん。小池とかにしようよ。』
「殴るぞ。」
『ごめんなさい。』
どうしてあいつは返り討ちにされるとわかっていてジャブを打ちに行くのか。
俺はリモコンを手に取ると、設定温度を上げた。
「しかしアンタたち、本当うるさいんだけど。何時間電話してんの。よく飽きないね。」
昼過ぎから、かれこれ4時間。8月の空はまだまだ明るい。
『そりゃあ、俺も、だいぶ物好きなんで。』
「おい…」
ウイングが向きを変えて、クーラーの冷たい風が汗で湿った髪をすり抜ける。
「は?物好き?俺も?も、って誰の話と掛かってんの?」
『あ。』
めでたい話に足をすくわれた男に、俺は祈るような気持ちで天井を仰いだ。
「翔、さっきまでヒデと何の話してたの?」
「あの…俺たちは、夏休みの宿題をやろうと…」
「教科書も開かずに?」
姉の鋭い眼光が俺の周囲をたちまちに焼き尽くす。心地よく冷却されたはずの辺り一面が、あっという間に焼け野原に変わっていく。
駄目だ、逃げられない。
これから囲む食卓は、和やかな雰囲気とは程遠いものになりそうだ。
『…。』
「おい、ヒデ子。化けて出るからな。覚えてろよ。」
そう言い残して、俺は、ぐっと静かになった大馬鹿者との通話を切った。