AM7:30
「僕はここのモーニングが好きでね。もし何か苦手なものがあったら遠慮なく言って下さい。」
前菜の向こう側に座った男は耳障りのいい声でそう言うと、並んだ銀食器を内側から使うのか外側から使うのか忘れて考え込んでしまった俺を見て、にこやかに微笑んだ。
髪をビシッと撫でつけた熟年のウエイターが、ワゴンに置かれた料理を真っ白なテーブルクロスの上に並べていく。
(スープはおそらくこの丸いスプーン…とすると、外側からか…?)
「もしかして、朝はそんなに食べない派だったかな。」
男はおそらく兄より父の方が歳が近いのだろう。ぎこちなく食べ始めた未熟な若者を、まるで珍しい生き物でも観察するかのように首を傾げて眺めている。
重厚な作りの肘掛けにもたれた腕には、シンプルな銀色の時計が光っていた。
「いえ、あの俺、こういうところに来たことがなくて、なんだか恐縮してしまって…。」
涼やかな目尻に皺を寄せてふっと笑った男の背後では、指にいくつも宝石をつけた有閑マダムたちが談笑している。
「そう固くならないで、好きなだけ食べてね。さっきは本当に助かった。感謝しているよ。」
さっき、というのはほんの30分前のこと。
夜行バスから降り立ったビル街で、少し前を歩いていた彼が落とした紐付きの茶封筒を拾った、というだけの話だ。
「今日は仕事で大事な決定があってね。そういう日には早起きして、ここのモーニングを食べることにしているんだ。」
俺の拾った書類はそれに使う大事な資料で、なくてはならないものだった、ということらしい。
それで、お礼にと朝ご飯をご馳走してもらっているのだった。
(まさか早朝からホテルのコース料理とは思わなかったけど…。)
そもそもモーニングにコースがあることすら、庶民育ちの俺は知りもしなかった。
白い皿に2つ並んだエッグベネディクトの橙色の黄身が彩り良く高級感を醸し出す。
俺ん家で食べてる目玉焼きの色と全然違う。というか、母さんから1日1個、と言われていた卵を朝から2つも食べている。しかもフォークとナイフで…。
(なんて、贅沢なんだ…。)
隣を歩いている時に目に入った彼の上等そうなブラウンの革靴を思い出す。
片やリクルートスーツを片手に新幹線代をケチって夜行バスで上京した俺は、パーカーにジーンズで、足だけスーツ用の黒い合皮の革靴という、まるでちぐはぐな出で立ちだ。
「ところで、君は上京かな?」
「はい、就活で、さっき夜バスで着いたばかりで、昼からこの近くで面接なんです。それで、どこかでスーツに着替えようと思っていたところで…。」
「そうだったんだ。どこから来たの?」
「えっと、○○市からです。」
「へえ、僕も行ったことあるよ。いいところだよねえ、温泉がたくさん湧いてて、お酒も美味しくて。また行きたいなあ。」
彼が俺の故郷の話題を振ってくれたので、ようやく話に花が咲いた。
俺はいつの間にか緊張が解れ、食事を終える頃には、物腰の柔らかい男との会話に居心地の良さを覚えていた。
「ああ、もう時間だ。残念だけど、僕そろそろ行かないと。」
「じゃあ俺も出ます。」
これから彼よりも更に歳上であろう年代の重役に取り囲まれて話をしなければいけないのだ。肩に力が入る。
先週受けた模擬面接の面接官はエントリーシートを何度も添削してくれた若い担当者で、話し慣れた身近な存在だった。
勝手な理由だが、面接前に、見ず知らずの大人の男性と話ができてよかったと思った。
「君は昼までまだ時間があるでしょう。移動で疲れているだろうし、ゆっくりしていって。またどこかで会えたらいいね。」
いたずらっぽく眉を上げて席を立つ男に、身に余る朝食のお礼をしなくては、と一緒に立ち上がり、求められるままに握手を交わす。
「ありがとうございます。ご馳走様でした。楽しかったです。あの、お仕事頑張ってください。」
「僕も楽しかったよ、ありがとう。君も、面接、うまくいくといいね。」
コーヒーを飲み終えて手荷物を受け取ろうとすると、ボーイに呼び止められた。
「松下様でいらっしゃいますね。先程のお連れ様のご予約でお部屋のご用意をさせていただきました。これからご案内させていただきます。」
「え?本当ですか?」
そんなはずはない。
彼には名前を聞かれなかった。
俺も、この場限りと思い、名乗らなかったのだ。
「お召し替えにお使いください、と言付かっておりますが。」
ボーイが顔色一つ変えずにそう続けたので、俺は不思議に思いながらも、案内に応じることにした。
もっとも、俺も彼の名前を聞いていなかったので、予約者の名前を教えてもらったところで確かめようもなかった。
「それから、お部屋でこちらをお渡しするようにと預かり物がございます。」
案内された高層階の客室でボーイから小ぶりな紙袋を手渡され、中を覗き込む。
「へ?マカロンと、マドレーヌ…?」
そして、カラフルな焼き菓子の詰め合わせの隙間に挟まっているカードをつまみ上げると、俺は去り際の彼の表情を思い出して膝から崩れ落ちそうになる。
「嘘、あの人…マジかよぉ…。」
『楽しいご滞在を』と電話番号まで書かれたその小さな紙の表には、男のフルネームに添えられて、俺が昼から面接を受ける会社の名前と、代表取締役社長の肩書きが印字されているのだった。