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生きているとは、流れていること

体の中を流れる音がきこえますか?ー生きているとは、流れていること。流れているから生きていられる。淀んで堆積しないように、うまく流れるように、心の中も、体の中も、ツルツルに磨いておく。

息が絶えた人はとても静かだ。その人は、自宅で倒れて亡くなり、約3か月たって見つけられた。まるで森の中で苔むし、朽ちていく倒木のように、清々しく土に少しづつかえっていた。「ご遺体」というより、生きていた時間と全く切り離され、何もかも停止している空間の中に横たわっていた。つけっぱなしのテレビに映し出された画面、蛍光灯の光、空調機のかすかな音も、3か月前のその日に属していた。体液はその人の体の中で静かに固まり、皮膚の表面にまるで海老茶の絵の具で描いたように定着し、流れを失っていた。

見つけられたのは2021年3月11日。マンションの上層階であったこと、まだ寒い季節だったこと、空調が利いていたことが幸いし、虫に食べられることもなく、きれいだった。

なぜ死んだのか?車を明るいブルーの新車に換え、ガラ携帯からスマホに換え、新しい運動靴を買い、国債を購入したのはここ半年以内。自殺ではない。遺族は、生きていたときのその人につながる何かを床の堆積から丁寧に拾いながら、「なぜ死んだのか」を問うていた。

その人の部屋は58㎡で広めの1LDK。遺族が賃貸契約を解除するために部屋にあるものを処分したのは5月の連休になってからで、処分量は2tトラック5台半だった。この数字は中々体感できない。住み始めてから18年間、必要なものは買ったが、不必要になったとしても、どうしても捨てられなかったようだ。床は堆積物で15㎝ほど嵩が上がり、衣類やモノが天井近くまで積み上げられ、寝る場所は鳥の巣かメダカの巣のようにそこだけ空間があり、テレビをみる場所とトイレ、台所、玄関までの動線がモグラの巣のようにかろうじてつながり確保されていた。

洗濯機につながる水道栓は壊れて水が出ず、冷蔵庫の冷凍室は半開きのまま凍って開かなくなっていた。風呂場は、一生かかっても使いきれないほどの未開封の洗剤やシャンプーであふれ、浴槽は干からびてゴミが底に溜まり、長い間お湯が張られていない様子だった。

きっと限界だったんだ。捨てるための気力はもう何年も前に喪失していた。もうこれ以上部屋に新しいものが入らない。新聞紙さえも。コロナで封じ込められ、外出もできない静かな正月に、体の中でが流れが停止し、窒息した。

その人は、巣のような空間の中で、なくしては困るものたちースマホ、判子、通帳、カード、お薬手帳-をカバン一つにいれ、生きていた。遺族が拾ったものは、腕時計が2つ、財布が2つ、新しい革靴と運動靴、新しいトートバッグ3つ、荷物運搬用のガラガラ3つ、ステンレスのボール類3つ、底が深い大き目のフライパン、蓋つきのマグカップ、蓋を開ける道具、未使用のスプーン類、枕元に置かれていた非常用の懐中電灯類、新品のドライバーやスパナ類、大量の乾電池とマスク、シャワーヘッド位置調節道具、消毒液、ポータブルCDラジオ、フロアスタンド、テレビ、温湿度計、冬物のカッターシャツ一枚、夏用の半ズボン1着、未使用の下着類、景品の手拭、いくばくかの想い出がわかる写真類、野球帽とツバの短い帽子、レトロな扇風機、ほぼ新品の掃除機、両親の位牌、亡くなった親からその人が引き受けたものたち、明るいブルーの車、車内に残されていた中森明菜のCD、新品のスマホ。そして火葬費用とささやかな葬式費用と、堆積した大量のものたちを処分するに足るお金。

テレビを携え、いつもの服を着て隣の区画に移動するだけで、別の生活をスタートすることができたのに、その人はそれを選ぶ前に亡くなった。詰まって流れなくなった巣の中で息をひきとった。





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