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「12人の怒れる男」で追体験ー「違和感」が起動させる偏見や差別を超える世界観

 わたしたちの「今」の2つの状況-偏見と差別、コロナ禍ーを映し出す演劇をみた。陪審員としての実体験をもとに、レジナルド・ローズ(脚本家)が1954年にテレビドラマ化し、後に舞台化された「12人の怒れる男」である(シアターコクーン/2020年10月4日まで)。

 アメリカのスラム街で起こった殺人。偏見と差別、それにもとづく取り調べ。状況証拠、証人の証言、国選弁護人の弁護、何もかも「少年が父親を殺した」というストーリーで裁判が進む。劇は個室に12人の陪審員が入るところから。判決が委ねられ11人が検察を支持し有罪、一人が「有罪かどうか判断できない」「一人の少年の命をちゃんと検証もせず奪うのか」といって、違和感を吐露するところからスタートする。66年前の親殺しは即電気椅子という差こそあれ、この劇は「今」世界の深層にある偏見を映し出している。

 次の展開で「12人の怒れる男」たちは、一人の陪審員の違和感を自分たちの違和感として捉え、証拠品の見え方が変わり、証人証言の齟齬を検証し、さらには「初め有罪と確信」したのは「自らの中にある偏見や差別が関係している」と気づいていく。レジナルド・ローズが実体験した8時間に及ぶ陪審を我々は追体験していく。

 「12人の怒れる男」たちにとって、スラム街は自分のテリトリーの外であり、スラムで育った少年は、ウソつきで人殺しであり排除したい「異物」だった。その排除すべき「異物」は、混沌を経て自らの心身の中で、収まりの悪い違和感へと変化した。そして「カンヅメ状態」「全員一致」「平等な権利」という特殊な状況の中で、「違和感」は偏見や差別を超える世界観の構築を起動した。

 二つめの「今」はコロナ禍である。初め私たちはコロナウィルスを自分からみて外部にあるもので、「異物」として自分のテリトリーから排除したいと願った。しかし自分のテリトリーとの境界は、様々な侵入によって流動化して混沌となり、コロナ禍が私たちの内に生む様々な「違和感」を組み込んだ世界観(*)を再構築せよ、との声が迫ってくる。外にある「異物」による「混沌」、そして内に生まれる「違和感」が起動させる新たな世界観の構築を私たちは経験している。


(*)山口昌雄著「文化と両義性」(1981年第八版)の「第4章文化と異和性」でいう世界観。以下引用する。『文化の枠として成立している世界観は、絶えず新しく形成される混沌を秩序の中に取り組む装置として働く。従って文化のプラクシス(※)は決して固定したものではなく、流動的でダイナミックである。秩序と混沌の接点は何時も固定しているわけではなく、それは絶えず移動している。文化は、そういった視点から見ると、絶えず増大するエントロピーとの葛藤の過程として捉えることができる。その能力を失うと、エントロピーの増大によって、文化は無為と退行に追い込まれる。これに対して、エントロピーを組み込むことに成功している文化では、「文化起動装置」が比較的順調に働いているということになる。』
(※)対象に対して実践的に働きかける行為的態度/大辞林

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