「公の時代」に膨張する「自分の意志ではないが自分でやった」「受動でも能動でもない」領域からの脱出方法
『公の時代』(朝日出版社)で、アーティスト集団Chim↑Pomの2人(卯城・松田)が、「個」の自由な表現の領域が、わからない内に圧迫侵害されている、という危機感を提示している。ここでいう「公」とは、国、社会、企業、第三者が求める秩序、例えば東京2020オリンピック・パラリンピック、緊急事態宣言など、そして世間からの目。「個」とは、その先端に、「公」から最も自由な存在として振り切れているアーティストがいる。Chim↑Pomが「個」の領域を表現し、隠れた「公」の秩序を見える化しようとして戦っている相手はいったい誰なんだろう?・・・と考えていたが、哲学者の國分功一郎が提示している「中動態」がそれに当たるのでは、と思い至った。すなわち―「緊急事態宣言で外出自粛したのは、能動態でも受動態でもなく『自分の意志ではないが、自分でやった』という意味で『中動態』である」(日本経済新聞2020.7.20)。Chim↑Pomの2人の危機感は、「公」と「個」の軸線の間で、あいまいで透明な膜をもつ「自分の意志ではないが、(「公」の意志で)自分でやった」『中動態』の領域が膨張し、「個」の自由な領域が飲み込まれていく危機感である、と捉えると全体が見えてくる。
戦争に突入していく時代には、この『中動態』領域が「個」の自由な領域を飲み込んでいっただろう。中国の若者が「日常の自分の振舞いや交友関係で自分に付けられるポイントが上下するので」「いい就職やいい結婚をするために駐輪違反しないように気をつけています。」とメディアに語っていたのを思い出した。「公」寄りの『中動態』領域で生きている中国の若者たち。主体的に動いているつもりなのに、精神は「公」に隷属しコントロールされている、という怖い状況にある。我々もこの領域に片足を突っ込んでいる。
一方『中動態』には「個」の方に寄った領域…「公」を足掛かりにして「個」を実現しようとする「個」の集団、チームが生きている領域がある。起業を志す人や企業の新規事業の開発チームなどが生きている領域。「公」に対するカウンターとしての表現活動はしないし、デモに行くわけではないものの、「公」を足掛かりにしながら「個」を実現する領域で生きていたいと思う。
しかし、この強く透明なバリアをもつ「中動態」領域から脱出する方法があるか?「中動態」の外で生きている人たちの協力が必要だ。例えば「ひきこもり」は、どの領域で生きているか?「公」からも「中動態」からも隔離した領域で生きていると考えれば、私のように「中動態」領域から出られず、もがいている者よりも、「個」の領域を守っている人に思えてくる。
重度心身障害者は?・・・「公」への精神的な隷属はなく、中動態の領域にも生きてはいない。もし「公」が及ばない別のレイア―に移すことができれば、一気に「個」の領域で生きていける人になる、ともいえる。そして、Chim↑Pomの2人のようなアーティストは、「個」の領域を牽引する役割を自覚し、もちろん「中動態」領域の外の人だ。
アーティストとは、作品をつくるだけではなく、どんな感性にでも、どんな感覚にでもアクセスできるアートの力が生まれる場を、人や組織や社会の中に創造できる人たちだ。「中動態」領域の外で生きている「ひきこもり」の人、重度心身障害者、「公」が及ばない場所にいる人たち、介護する、されるという「公」の枠組みを外し、協働するパートナーになる時間をもつ福祉施設、そしてアーティストたちに導いてもらいながら、私は中動態領域からの脱出を試みる。