ソンダク

写真論 スーザン・ソンタグ×ダイアン・アーバス


約40年前(1977年)にかかれた本だが、決して古くならない。訳者の近藤耕人は「写真を鏡として裏側から照らし出したアメリカの社会と文化を論じたものであり・・・」と解説。スーザン・ソンタグ(Susan Sontag)は1933年ニューヨーク生。63年「恩恵者」66年評論「反解釈」で一躍60年代の急進的文学の旗手として注目された。

訳者が「ソンタグはこの自殺したユダヤ人女流写真家にいちばん理解と愛情を注いで書いている」と解説したダイアン・アーバス(Diane Arbus 1923年ニューヨーク生。1971年没)について17㌻を割いている。(「写真でみる暗いアメリカ」の章のほとんど)

1972年にニューヨーク近代美術館で開かれたダイアン・アーバスの回顧展は写真の展覧会としては記録的な観客を集め、この年刊行された写真集は25万部以上も販売された、とある。社会現象とも言えるアーバス展とアーバスを、ソンタグはどのようにとらえたのだろうか・・・・

アーバス展の中心となる人たちは、人間らしいことをしている、見ていて楽しい人物とはちがって、いろいろな奇形人間やあいのこの取り合わせの勢揃いで、その大部分は醜く、それに奇怪なのや、つましい衣服をまとい、陰気だったり、がらんとしている環境にいて、立ち止まってポーズをとったり、素直な打ち解けた眼差しで観客を見つめていることが多い。(39㌻)

アーバスの写真では正面向きはもっともいきいきした形で、被写体の協力をも意味しているのである。こういう人たちにポーズをとらせるためには、写真家は彼らの信頼をかちえなければならなかったし、かれらと「友だち」にならなければならなかった。(45㌻)

彼らを恐れなかったこと、嫌悪感を乗り越えたことの震えるような喜びがあった。奇形人の写真を撮ることは「わたしにはぞくぞくするような興奮でした。わたしはただもう、うっとりしていました。」とアーバスは説明している。(46㌻)

アーバス展ではすべてひとりで撮り、すべて似通った—つまりそこに写っているだれもが(ある意味では)同じにみえる—112枚の写真はスタイケンの素材の、自信を取り戻させようとするような暖かみとは正反対の感じをひとに押しつけた。(39㌻)

「通りでだれかを見かけるとします。その際目につくのは本質的には欠点なのです」とアーバスは書いている。アーバスの作品が、原型となる被写体からどれほど拡がっても際立って似ていることは、カメラによって武装した彼女の感受性がどんな被写体にも、苦悩や変態性や精神の病いをほのめかすことができることを示している。(41㌻)

「子どものころの悩みのひとつは、私が一度も逆境というものを味わったことがないということでした。わたしは非現実感のとりこになっていたのです。(・・・・・・)そして自分は免除されているという感覚が、滑稽にみえるかもしれませんが、苦痛でした。」アーバスの奇形人に対する関心は自分の無垢を犯したい、自分が恵まれているという感覚を堀り崩したい、自分が安全であることに対する苛立ちに吐け口を与えたい、そういう願望を表している。(51㌻)

昨年、ダイアン・アーバスの写真をワタリウム美術館でみた。そのときは強い印象が残ったものの言葉にはできなかった。スーザン・ソンタグは2つの感受性「アーバスの写真では被写体はたいがいまっすぐカメラをみつめている。(44㌻)」「だれもが同じように見えるように示されている。(55㌻)」からアプローチして、写真を観たものの深部に届くことばで批評した。





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