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写真家のシャッター

強い衝動、痛み、動かし難い「何か」が身体の中に居座っている。その「何か」が、被写体やまわりの情景の「何か」と共鳴し繋がる。その瞬間に写真家はシャッターを押すのではないか。その「何か」をもっとはっきりとらえるために。若手を含む8人の写真家の言葉から「なぜ写真を撮るのか」をつかみたい。(◎□◆の記号は、参考文献を表し最後に記載)

◎齋藤陽道(1983年生まれ)
作品そのものにフォーカスするのではなく、作品が生み出されるに至る空間や道具、光景、生活の場といった道筋を撮りたいと思いました。「作品」を料理とすれば、それらの道筋は、作家が繰り返す日常として「作品」をのせる「うつわ」。それを浮き上がらせたかった。

□下道基行(1978年生まれ)
目の前には奇妙な光景が広がっている。実はそういうことは写真を並べてみせれば「下道がみえてたものはこういう風景だったんだ。」って伝えることができる。・・・目の前に見えるもののなかに、何か別のもの、違う時間軸の異物が混ざっていたりする気持ち悪さみたいなものってあるんです。そういう見え方に惹かれます。

□石川直樹(1977年生まれ)
古屋誠一さんの言葉「写真というのは、「何を」撮るかじゃなくて、「なぜ」それを撮るかが大切なんだ。たとえば、北極だろうが近所の公園だろうが関係なくて、自分と目の前の世界との関わりが重要なんだ、と。その「なぜ」に答えられるものがなければ、意味がない。」以来、自分の身体がきちんと反応したものだけを撮ろうと決めたんです。

□志賀理江子(1980年生まれ)
ビナ・バウシュから始まり、世界中のありとあらゆる身体表現に影響を受けました。そこにはすべてを裏返しにして肯定するような、すごく愛があるような気がして、死ぬほどうれしかった。

◆荒木経惟(1940年生まれ)
卒業制作でデシーカの「自転車泥棒」にでてくる少年みたいのを主人公にしたドキュメンタルな劇映画をつくろうと考えていたところに、この現場―三河島にあった戦前からの鉄筋コンクリートのスラム化したアパート―この現実、私は驚喜した。・・・そしてさっちんに出会った。・・・さびしがりやのくせにすぐおどけて見せたり、あんがい気が弱かったり、弟のマー坊はケンカしたらケンカするタイプ。さっちんはすぐ逃げちゃう。さっちんに自分をみたんだろうね。自分をさっちんに投影して(写真を)撮ったのかもしれないし、さっちんが私を写したのかもしれない。そんな私的な関係ができたね。

◆藤原新也(1944年生まれ)
私は22歳になったとき、自分がこれまで慣れ親しんできた“自分”を脱ぎ捨てたいという気持ちが起こった。私は美術大学をやめ、自らのアイデンティティの証でもあった絵をやめ、身のまわりのものを整理し、下宿をひきはらい、日本を脱出した。ただ長い旅にでたいというのがそのときの私のただひとつの願いだった。・・・私が写真を撮る動機というのは、その(旅費の足しにしたい)ように卑俗であり、また無心であったといえる。無心の上に立って対象と向き合い、‟写真“という意識から離れ、宿命的な呪縛から逃れたところで発信されるオリジナルが力と純粋性をもつ。

◆奈良原一高(1931年生まれ)
自然もしくは社会機構(溶岩に埋もれた桜島の黒神村と長崎港外17キロの沖に浮かぶ人工の炭鉱、その姿から軍艦島とよばれる、端島)という、外部からのエネルギーによって隔絶された極限状況、そこに生き続ける人間の世界が僕の目の前に立ち現れたのだった。その二つの異なった「場」をレンズを通して見つめれば、その共通事項である極限状況で生きる人間の力が浮かび上がってくるのではなかろうか・・・・ある夜のこと・・突然にひとつの声をきいたような気がした。‟自分がそう思うなら、思った自分がやればいいではないか„ 翌日、僕は沼袋駅前のカメラ屋に行って一台のカメラを買った。

◆篠山紀信(1940年生まれ)                      ぼくは今に至るまで楽々写真をとったことは一度もない。この「誕生」をとったときの自分の中にある不安や緊張、野心や傲慢、危機感や焦燥、そんなことが入り混じった痛い気持ち全部がこの作品を創らせたのだの思う。今にして思うと、この苦痛をずっと失わず、自分に突き付けてきたことが、その後のぼくが写真を撮り続けてこれたわけのような気がする。 

参考文献:◎フィールド⇔ワーク展/渋谷公園通りギャラリー~2020.8.23まで)/□じぶんを切りひらくアートー違和感がかたちになるとき(高橋瑞木・フィルムアート社篇)/◆開館記念企画展 25人の20代の写真 清里フォトミュージアム/                                

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