連続小説MIA (94) | Chapter Ⅴ
借りた本を抱えて来た道を戻る。老人の家をでるときにすでに雲行きは怪しかった。みるみるうちに空は暗くなり、バケツをひっくり返したように雨が降り出た。本を服の中に抱え込み路地裏を走った。期せずして、チャンの店の前でジェイコブと鉢合わせた。「ひどい雨だな。今帰りか?」「ああ、今日はだめだ。誰も出歩いちゃいねえよ。サーキュラーキーのあたりは早いうちから土砂降りだったぜ」店に入りチャンに配達完了の報告をする。「ミン爺さんは元気だったか?」ミン爺さん?「ミンさんと言うのですか。名前は聞きそびれてました。お元気そうでしたよ」そうか、ありがとう。といってチャンは10ドル札を手渡す。「また、配達を頼むよ」そう言ってチャンは接客に戻った。僕は部屋で黄山の写真集を眺めることで夕方まで過ごした。桃源郷というものが実在するのならばこういう場所なのかもしれない。桃源郷について調べると、こうある。桃源郷への再訪は不可能であり、また庶民の世俗的な目的にせよ、賢者の高尚な目的にせよ、目的を持って追求したのでは到達できない場所とされる。探し求めれば理想郷に行けるという考え方を否定している。すでにここに在るものであり、心の外に探し求めてもそれは見つかることはない、という。あの爺さんは仙人なのか。いや、ただの爺さんだろう。窓から眩しいほどの陽光がさした。いつの間にか雨が上がり、チャイナタウンの路上には人々の活気が戻っていた。
ミン爺さんはフレデリック・チャンの実父だった、ということを知ったのは、ミン爺さんのところへ三度目の訪問をしたときだった。ミン爺さんから「フレッドは元気にしていますか」とあったのだ。「ええ、元気にされていますよ。あの、ミスター・チャンとはどのようなお知り合いなのです?」「フレッドは私の一人息子です。しばらく会っていませんでした。ひと月ほど前かな。久しぶりに電話があったのです」そういうことだったのか。ミン爺さんは、話す心積もりがあるらしい。「それで?もしよかったら教えてください」ミン爺さんは、茶をすすりながら続けた。「フレッドがあの場所でビデオ店をはじめるというので、私は猛反対しました。いかがわしいビデオでも置くんじゃないだろうか。それでもチャンの家系か、と」ミン爺さんは話を続けた。「でも、実際に彼が開いたのはそんな店ではなかった。あの店のラインナップをご覧になりましたか?多くがヨーロッパの古い映画であり、それらを選んでいるのは彼の審美眼です。中国の古典映画やドキュメンタリーもあるようですね。この間あなたにもってきていただいたVHSはまさにそうだった。すべて私の杞憂だったわけです」僕はよく話すミン爺さんを珍しいものを見るように見ていた。穏やかな、無口なミン爺さんからは想像もできないほど息子には厳しく接したようだった。「いいお店ですよ。僕もたまに店番をさせてもらってますが、常連客はみなフレッドに助言を求めています。次に何を観るべきか?と」ミン爺さんは目を丸くして、それからにっこり笑った。「それはいい。フレッドにそんな一面があったなんて思わなかった。いつまでも私の知っている、子供のままではないのですね」そういってミン爺さんは茶をすすった。
つづく(※平日の正午ごろに連載を更新します)
(*The series will be updated around noon on weekdays * I stopped translating into English)