北斗晶よ、女子プロレスに謝罪しろ!⑪
絶頂期の週刊プロレス しかし崩壊間際の週刊プロレス
プロレスファンなら、ターザン山本という名前を聞いたことがある人は多いんじゃないかと思う。1996年まで週刊プロレスの編集長を務めた後、プロレス業界から追放された人物だ。
ターザン山本は、週刊プロレスの記事の中に独断と偏見を持ち込んだ人物だ。主観でプロレスを眺め、それを尖ったかたちで記事にまとめる。そうすることで無機質になりがちなレポートに生身感を加わり、プロレス以上に記事自体が力を持つようになっていった。いわゆる「活字プロレス」というやつである。
それが大うけして、プロレスファンから週刊プロレスは圧倒的な支持を得て、公称40万部まで部数を伸ばしていた。
週刊プロレスに掲載されれば観客動員が増え、叩かれれば動員が減るとさえ言われていた。
当時の週刊プロレスは、雑誌の範疇を超えた、業界を動かすほどの大きな影響力と権力を握っていた。
女子プロレスの団体対抗戦が行われたのも、まさに、週刊プロレスが絶頂期の時代だった。もし、対抗戦が行われるのが2年後だったならば、もっと違う展開になっていたんじゃないだろうか?
週刊プロレスがそんな力を持つようになったのはSWS騒動からだ。それ以降、週刊プロレスは、新日本・全日本といったメジャー団体と並ぶか、ひょっとしたらそれ以上の大きな影響をプロレス業界に与えるようになっていた。
SWS騒動というのは、1990年に大手小売店のメガネスーパーが設立した新しいプロレス団体のSWSと週刊プロレスが対立した騒動だ。
巨大な資本をプロレスにつぎ込むSWS及びSWSに移籍した天龍源一郎などを、週刊プロレスが「金権プロレス」と批判したことで、SWSと週刊プロレスとの間に決定的な対立が生まれることになった。
週刊プロレスはSWSに対して、ネガティブな記事を書き続け、険悪な関係の中、SWSは取材拒否をするという事態に発展する。取材拒否された方の週刊プロレスは、SWSなど存在しないかのように無視し続ける。
その結果なのか、SWSは2年後に崩壊することとなった。そして、ファンの間で、また団体の間で、SWSの崩壊が週刊プロレスに掲載されなかったことが原因ではないかとの認識が広がっていった。
その一方で、週刊プロレスに取り上げられれば、それがそのまま集客に結び付くという事実があった。そのため、多くの団体が週刊プロレスに過剰なほどに気を遣っていた。
女子プロレス対抗戦当時は、まさにそんな時代で、週刊プロレスが肩で風切る、最も権勢を誇った時代だった。
ライバル誌に週刊ゴングがあったが、正統的な記事の構成になっていて、見たもの、あったことをできるだけそのまま伝えようとする。そのため、どうしても紙面は地味なものとなり、週刊プロレスに部数面で大きく差をつけられていた。
その絶頂期の週刊プロレスの勢いが止まったのは、1995年に行われた週刊プロレスを発行しているベースボール・マガジン社が主催した、東京ドームで行われたオールスターのプロレス興行『夢の架け橋』がきっかけだった。
メジャー団体の新日本、全日本だけではなく、WARを除いたU系団体、インディ団体も含めたすべての団体がドームに集まって、各団体が試合を提供するという画期的な興行だった。
『夢の架け橋』に参加しなかったWARは、SWSの後継団体として天龍をエースに活動していた団体だ。
開催当日、WARが、偶然にも後楽園ホールで興行をすることになっていたのだ。WARが後楽園ホールでの興行が決まっていることを理由に、『夢の架け橋』への出場を断わると、経費を補填したうえで相当なギャラを支払うことを提示して、ターザン山本はWARに出場を要請する。
それでも断るWARに対して、ターザン山本は「WARをマイナーなところへ追いやることになる」と脅しをかけたのだ。
そのことにより、週刊プロレスは一瞬で信頼を失うことになった。
『夢の架け橋』は、プロレス団体ではない雑誌社一社の主催ということに加えて、週刊ファイト一紙を除いて、週刊ゴングなどの他メディアの取材を許さなかったことでも、批判を浴びていた。プロレス業界のためではなく、週刊プロレスの威信のためではないか? と。
そんな状況の中、週刊ゴングが『夢の架け橋』にNOを突き付ける。そして、同日に行われるWARの大会を全面的にバックアップすることになった。
さらには、他団体からも平成維新軍の越中四郎など、多くの選手がWARの興行に出場に名乗りを上げる。その中には、LLPWの風間ルミの名前もある。
週刊ゴングの当時の編集長・小佐野景浩は、『夢の架け橋』を「NO」としたのは、各団体がターザン山本の顔色を窺っていたからだと言っている。多くの団体は、本当は協力したくないが、参加しないと干されるんじゃないかとおびえていたのだ。
主義主張がそれぞれあったから、団体は分かれていたわけで、そんな主義主張を持っている団体が一マスコミの顔色を窺っている。それを情けなく感じてしまったゆえの「NO」だった。
逆に言うと、週刊プロレスの顔色を窺わなければ団体の運営が厳しくなると思わせるほどの力を週刊プロレスは持っていたということだ。
実際、LLPWは、週刊プロレスに悪意の週プレ劇場を展開されたせいで、大きなダメージを受けている。
ターザン山本のWARへの恫喝と、週刊ゴングの「NO」の表明で、週刊プロレスの影響力は根底から揺らぐことになった。
『夢の架け橋』の話が出てから一年たって、WARは週刊プロレスからの取材を凍結する。1996年2月のことだ。
当時のWAR社長だった武井正智の、取材凍結にあたってのインタビュー記事が別冊宝島に載っている。そこで武井は、週刊プロレスの作為的な報道姿勢を辛辣に批判している。
ターザン山本は、人の見ていないところなら、土下座なんて屁でもない人物で、トラブルになりそうになると、ミエミエのヨイショをしてくる。試合のレポートにしても、選手の言葉に乗っかるかたちでWARを貶める。
武井が例に出した試合の記事を読んでみたが、WARと決別した選手が放った「大仁田はWARはプライドが高くて何もできねえ団体だと言っていたけど本当だ! 約束が違うじゃねえか! バカヤロー!」という、明らかにWARを貶める罵声が強調されるかたちで書かれていた。
さらには、記事本文の中でWARのことを「メジャーとインディーの中間の、ちょっと中途半端な位置にいる団体」と小ばかにした表現が当たり前に踊っている。
試合レポートに、こういう表現が絶対に必要というわけではないにも関わらず、あえてこういう表現を使う。緊張関係のある間柄の団体に対する表現としては著しく礼を逸しており、WARを挑発しているかのようにもとれる表現だ。
さらに武井は、週刊プロレスの傲慢さを示す例として、1994年3月2日に行われた天龍vs大仁田戦が決まった時のエピソードを語っている。
東スポとゴングはその試合のことを知っていて報道したが、週刊プロレスが知らなかった。その時、週刊プロレスは「ルール違反だ!」とWARに激怒の抗議電話をかけてきたという。
週プロには取材努力が何もなく、情報は団体の方からくるのが当たり前だと思っている。記者たちは取材もしないで、柱の陰からアラばかり探している。
WARが取材凍結を決断した日から約一か月後、週刊プロレスに対して、それまで週刊プロレスの記事に業を煮やしていた新日本プロレスが取材拒否を行うことになった。さらにUWFインターと武輝道場も取材拒否を決めたことにより、週刊プロレスの部数は激減し、ターザン山本は編集長を追われることになった。
ターザン山本を擁護する声はほとんど上がらなかった。
週刊ゴングの元編集長の小佐野景浩は、ターザン山本について、「好き嫌いで書く」ところが、専門誌を見てきた人間として週刊プロレスは許せなかった、と言っている。専門誌というものは何かの時に見返すことができるように取っておくものだが、週刊プロレスには資料性がまったくないため、週プロは読んだら捨てていた、と語っている。
確かに、小島和宏の書いたLLPWの記事は絶対に資料にはなりえない。
週刊プロレスが主催した東京ドームの『夢の架け橋』で、ターザン山本はブーイングを浴びせられた。
そして、この日、北斗晶は引退を撤回した。北斗晶の引退撤回を促したのは、ターザン山本だ
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参考文献および引用元