庭 (全文無料)
ホーソーンの「ラパチーニの娘」には、毒を持つ植物だけを集めた妖艶な庭が出てくる。私には、その庭、あるいは庭の中心で紫の宝石のような花をつける灌木こそが、心惹きつけられる関心事である。その庭で育てられ、肉体そのものが毒性を持つに至った乙女よりも、である。隣の下宿の青年は、庭の不穏なる色のどぎつさを訝しみつつも、やはり庭に行かずにはいられないのだ。むべなるかな、花々の異常なる香気、異様なる輝きはまさに中毒性のある美を発散してやまない。青年自身の肉体も毒性を帯びた原因は、吐く息だけで虫を殺す乙女ではなく、植物なのだし、己の肉体が乙女と同質となった時に青年が激昂したのは、自分は安全な高みから乙女を、庭を愛でる余裕があったと愚かにも信じていたからなのだろう。哀れな乙女は父の実験の犠牲となったかもしれぬが、結局は青年の後見人たる教授の解毒剤によって死んだのであるし、その精神は青年に突き放されたことによって死んだ。植物と乙女に罪はあったのか。
だが愚かな人間関係を、庭はじっと見ている。自身の毒が人間たちの脳をも犯すのを待っている。植物の罪は、あるといえばある。
ここまで書いて、私は机から顔を上げた。
春の空はほのかな輪郭の雲をいくつか流しながら、少しく霞んで窓の向こうに広がっている。
私は立ち上がり、腰を撫でながら外を見下ろした。
折しも、隣の庭の老婆がベランダから出てくるところであった。老婆は毎日ぴったり午前十時になると、日課の庭いじりをするのである。偏屈な老婆の、それが唯一の趣味であるようだった。
その風変りな趣味は以前より私の興味を引いていた。というのも老婆は毎度すべての庭木に殺虫剤を念入りにかけて回るのである。庭木に詳しくない私にはよくわからないのだが、殺虫剤とはそのように絶え間なく使わねばならぬものなのであろうか。
年がら年中、老婆は一日一本のスプレーが空になるまで、執拗に殺虫剤をかける。春のこととてツツジが咲き頃で、私も他家の庭先で、その花弁の柔らかさに似合わぬ強い色合いを楽しませてもらっていたのではあるが、老婆の庭のそれは妙に貧弱だ。
老人特有の強迫観念であろうか、とにかく飽きもせず繰り返される殺虫剤の攻撃は、枯れかけたコデマリにも容赦がない。
その様子を時折見ながら、私はぼんやりと考える。あの庭の植物たちは、老婆によってどの程度まで、毒への耐性をつけたのだろう。あるいは老婆自身、どれほど平気なのだろう。むせるような虫殺しの霧の中を、老婆は動き回り、葉や花をいじり、憎しみさえ感じられる仕草でスプレーをかける。
そして同時に思うのだ。こうして二階から隣家の庭を見下ろす私が、あの庭に忍び込み貧弱な赤紫のツツジをつぶさに見たいと思うのは、私にもあの殺虫剤の霧が流れてきているからか、あるいは私自身が老い、毒などはただ死を弄ぶ甘美な春霞に過ぎないと感じているからか。
間違っても、あの老婆に恋したからではあるまいが、私はなぜ「ラパチーニの娘」を今更再読しようと思ったのか。考えながら、私は煙草に火をつけた。
(初出 ネップリ創作文芸同人誌『鯨骨生物群集』 vol.9 2023年春号)
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