自制と怠惰。中庸って難しい。
自制と怠惰。中庸って難しい。
今日、自制と怠惰の折衷案を、荒削りながら見つけたので記録として残す。
そして、怠ける自分とお別れしたいあなたに、一つの答えを提示できれば良いな、と思っている。あなたは、未来の自分かもしれないし、ふらっと立ち寄った誰かかもしれない。
ここ3年ほど、私は自制心が優勢な数週間-数ヶ月、そして怠惰な心の優勢な1日-数日を繰り返す生活をしている。何度もこのサイクルを経験しているのだから、少なくとも自分には以上のような性質があると認識している。他の人がどうかは知りません。
ここで、仮に次のような呼称を採用する。
・イケイケ期:自制心が優勢な数週間-数ヶ月
・やみやみ期:怠惰な心の優勢な1日-数日
イケイケ期とやみやみ期の繰り返しは、モチベーションの変動が大きすぎて疲れる。できれば、常にその時々を大切に生き、目の前のことに集中していたい。そこで、今の自分が考える、イケイケ期とやみやみ期の折衷案を言語してみる。
イケイケ期→Zoneが足らねぇ!!
・日々に充実感は覚えるけれど、没入間にはかけているイケイケ期。
・Zoneに入るような日々を送りたい。
そもそも、イケイケ期はどんな存在か。それは、自分のやるべき目標を見定め、目標達成のために日々を淡々とこなす日々。大きな達成感や充実感はたまにやってきて、道のりは険しいイメージ。大変ではあるけど、眠る前に"今日もやり切った!"という感覚に至れる、充実感と自己陶酔の日々。
イケイケ期の存在は、自分の夢や理想があって、理想と現実が乖離していることを暗示する。理想を目指すから人は頑張る。努力する。自分のやりたいことがある、という点では良いことだと思う。でも、イケイケ期に対する私の解釈は、"満足感・充実感"は与えてくれるけれども、決して"この瞬間を楽しんでいる"という感覚とは言い難い。
理想の状態に至るまでに必要なこと・足りないことを逆算して、日々の行動レベルに具体化する。この作業を経てTo Doリストに残るのは、夢への前進というよりは、むしろ消費するべきタスクになっている感が否めない。
今を犠牲にして、未来を獲得する。そんな感覚が否めない。
正確には、日々は犠牲になっているのではなくで、未来に投資されているのだから、ネガティブな意味合いは含まれないはず。でも、やりたいことがやるべきことに変わった時点で、状況を過度にメタ認知してしまっていて、没頭している感覚、夢中になっている感覚をなかなか味わえない。
理想が現実から遠ければ遠いほど、やるべきことは多い。目標達成までの時間がかかり、長い道のりとなる。だから、日々の気持ちの虚いに左右されない、タスクベースの行動は無論重要である。でも、没頭している感覚は得られない。
小さい頃に、人形遊びをしていたような、絵を何時間も描き続けていたような、ゲームに夢中になっていたような、あの時の感覚が欲しい。 言葉を少し知った私は、その状況がZoneに近い何かであると考えている。
・日々に充実感は覚えるけれど、没入間にはかけているイケイケ期。
・Zoneに入るような日々を送りたい。
やみやみ期→自己実現から遠のく自分が嫌いになる
・欲望に溺れ、そんな自分を客観的に認識しているからこそ辛いやみやみ期。
・そっちへ進んだら大変なことになる、元に戻れなくなるよ!というMind Bに救われる。
この時期は、ある日突然やってくる。機械仕掛けの時計の歯車の歯が欠ける、みたいな些細なことから始まるやみやみ期。きっかけはこんな感じ。
・疲れたので、YouTubeをみていたら、止まらなくなる。
・FPSを少しやろうと思ったら、徹夜。
・夜小腹が空いて、少しお菓子を食べたら止まらなくなる。
以上のような出来事を皮切りに、生活リズムは意味わからんくらいに狂う。人間のクズになったような日々を送る。快楽的な自分が嫌になる。でも、その状況を傍観しては、抜け出せない自分がいる。
本当にひどいものである。
私の外面は、毎日を楽しんでいる人間。周りにもそう認識されている(と思ってる。)
でも、そんなことはない。日々、自分の心の中の悪魔と戦っていて、よく負けている。その悪魔は、別名:欲望。
欲に溺れて溺れて、マリアナ海溝に到達する。
浮力はなくて、体は普段の何千倍も重かったりする。
しかも、それがマイクポップコーンや、Call of Duty (FPS、対戦ゲーム)だったりする。ベットから起き上がりたくない。ご飯を食べるのもめんどくさい。何もかもから離れたい。目を閉じていたい。そんな気持ちに襲われるから、"やみやみ期"と命名した。
そして、あるとき"このままじゃやばいぞ"というマインドBに救われて、イケイケ期に戻っていく。
・欲望に溺れ、そんな自分を客観的に認識しているからこそ辛いやみやみ期。
・そっちへ進んだら大変なことになる、元に戻れなくなるよ!というMind Bに救われる。
ボラ低めの生活をおくりたい
以上のサイクルを繰り返していては、いづれ私は滅ぶだろう。生物学的にか、社会的にかはわからない。でも、大切な局面でやみやみ期がきたらどうするのだろう。御愁傷様って感じである。
だから、私はボラティリティ低めの日々を送りたい。ボラティリティとは、投資に関する用語で、為替レートや株価の値動きの大きさを指す。
つまり、ボラティリティが高いことは、不安定で先行きが読めない。
"移動平均線"が上向きだったら、それで良いやん、といった声が聞こえてくる。いや、それに関しては激しく同意。でもさ、下がってる時は辛いやん。何ならブッダの悟りを開いた状況に至りたいやん。
ここで、先人の言葉を引用する。
My 父:生きるための食事があって、楽しむための食事がある。
My Previous 教授:To Do の量には0.7くらいの安全係数を掛けておく。
どこかの誰か:ずっと頑張っている状態では、ここぞという時に力を出せない。休むことでしゃがみ、そしてジャンプすることで本当の実力を出せる。
どれもこれもソースは危ういが、私の心を打ったのだから大切な言葉である。ここから学べることは、こんな感じだと思う。
・自分の欲望と適切に向き合う。そしてやるべきことをやる。
・やるべきことをやり続けることはできないから、日々全力を出しすぎない。
・適度な休憩が、自分の実力を引き出す。
その通りだなーと思う。自分の身の丈を知った上で、行動する。
今の自分の心と体は何を欲しているのか、耳を傾けてみる。
これって、疎かにしがちだなあと、今思った。
やるべきことに囚われすぎて、心と体が侵されていく。これはよくない。
ってことは、頑張りすぎないことが重要。やらないことを決めることが重要。っていうありきたりな帰結に至った。
そのためにできることは、それこそ朝の散歩だったり、10分何もしない時間を作ることだったりする。余白に向き合って、自分を整理する。自分の声を聞く。これが、少しずつでも自分のボラを低くできる、地道にして確実な方法なんじゃないかと思う。
さて、今回お話ししたのは、自制と怠惰の中庸を採る、堅実なやり方。
一方、今の私にはもう一つ、自制と怠惰の中庸を採る考えがある。これに関しては、また別の記事で。