考えながら歩く。
考えるって何だろう
人は考える葦である。/ パスカル
意味するところは、"葦(あし)"のように弱くとも、"考えられる"点においてヒトは偉大であるということ。この言葉は、ヒトが本質的に"考える"存在であることを端的に示す。
考えるって何だろう。
これは非常に難しい問いだ。切り口によって沢山の答えが得られる。
生理学的には脳神経細胞間の電気化学的なやり取りと、神経回路の脂質による被膜強化である。幸福論的には、幸せを目的とした精神活動である。
ヒトは、考えることで知恵を見出し、生態系の頂点に君臨してきた。
食物連鎖のピラミッドの頂点に、胡坐をかいている。
目の前には存在しない何かを、存在するかのように考えることが出来るし、過去・現在、そして未来までも想像することが出来る。
特に、進化生物学的な観点からは、ホモサピエンスという"個体・種"の保存をする上で重要となる"思考の癖"が、現代人を支配している。それは、ポジティブよりネガティブなモノ・ヒト・情報に引き寄せられるという癖だ。
考えることと悩むことを切り分けて考える
ネガティブなニュースや、陰口に、ヒトは引き寄せられる。何故か。
ヒトとヒトが協同して生活していた数千年、あるいは数万年昔、それらの情報が生死を分けたからに他ならない。生存する上で脅威となる存在に対しては、高い情報感度が求められたのだ。
行動を起こそうとすると、すぐに失敗のイメージが思い浮かぶ。何故か。
憶病な方が、結果として生存率が高かったからだ。だから、脳はありとあらゆる失敗の可能性を我々に否応なしに突き付け、そして萎えさせる。これは、数万年前のヒトの名残であり、生き残る上で重要な戦略であった。
現代に時を戻す。ヒトは、特にこの文章を読んでいるであろうあなたは、何らかの形でスマートデバイスを扱っている。きっと、明日の飢え死にを心配してはいないだろう。つまり、現代においては、私たちは不安に対して過剰に反応しているといえる。今は、石器時代ではないのだ。
だから、何かをするときに付随する精神活動を次のように切り分ける。
・考える / 生産的な精神活動。すなわち、衝動に振り回されない。
・悩む / 非生産的な精神活動。すなわち、現状把握を疎かにし、恐れを感じ、やるべきことに時間を割けない。
考えているつもりが、悩んでいるだけ。そんなことは、言語化されないだけで、実はあらゆる局面で起こっている事象なのではないか。
あなたが生産性を失った時点で、考えることをやめている。
そして悩んでいる。
考えることは機会損失を生む場合がある
さらに、"考えること"の功罪について考えたい。"考えること"、あるいは"考える内容"に影響を与える要因を列挙する。
・今までの人生にて知りえた知識
・日頃接するメディア
・あなたの性格
・受けた教育
これらは、きっとほんの一例であろう。そして、これらの要因には共通して、多くは"過去の出来事を参照"しているということである。つまり、いままでの轍と照らし合わせた先にある、それらしい未来を考えている。
そこには、予想外が含まれていない。考えている時点で予想内。自分ひとりでは知る由もなかった何かに、考えただけでは出会えない。
この機会損失を減らすためには、"ランダムを摂取すること"が大切である。
そう私は考えている。例えば、今までやったことのないことに挑戦するのは、ランダムを摂取することに該当するだろう。
私は今までに、無茶ともいえるランダムを摂取してきた。
・高尾山薬王院(東京都八王子市)から成田山(千葉県成田市)まで歩いてみる。
・八王子市から伊豆半島最南端の石廊崎までサイクリング。もちろん往復。
・スイスをヒッチハイクで縦断。
いずれも、思いつきで実行したランダムである。
ちなみに、成田山まで歩くのは、もう御免である。でも、何故だか長距離を歩きたい欲にはかられている。
幸せに生きるためには何が必要か。この問いに答えは無い。
だからこそ、考えるヒトであってはならない。
考えながら歩くヒトを目指して生きたい。
ランダムを摂取することについては、この記事にて言及してます。
是非ご覧ください。